2010年4月20日火曜日

散文物語集 前編 前書き

前書き(2000年当時に書いたもの)

 これは短い物語の雑多な集積というべきものです。文体練習の結果できたものです。そのため随分に発想が若く、わたしを知る者には少し驚きかも知れません。その構想は高校卒業辺りに集まっているためだと思って容赦してください。
 世の中の事象には教訓のあるものとないものがあると思います。物語もまたそうであり、この物語群は全くの教訓の無さに貫かれて描かれています。それは先にいったように若さゆえのことではなく、今でもわたしの中に流れているいかんともしがたい傾向です。教訓を得たこともなく、教訓を与えたこともわたしには全くありません。
 わたしは全く物語を書くことが苦手なので、その練習にもしようと思ったのですが、やはりそこは難しい自分への注文でした。完成したもののうちで、出来る限り物語に近いものを並べたうえで、しかも最も短い形式の物を集めました。最後に短編程度のものがありますが、ほかのものはアフォリズムというか、わたしの作り上げた一種の形式に貫かれた形にまとまり、簡潔です。わたしはどうも長く複雑にしかも繰り返しだらけにものを考えてしまう傾向が強く、人をうんざりさせ、非社会的とも言われています。そこで、このような形式なら、ある種の容赦が得られるのではないか、と思われます。わたしにはとても苦痛な形式です。というのは短すぎて誤解に対する弁解や正当化を書くスペースがないからです。しかし新しい興味としてどのような誤解があるか、という楽しみもそこに生まれるでしょう。
 この本が愛すべき読者の時間を奪うことが無いように。

前書き2(2010年4月)

「旧散文物語集」は、わたしが自分で書いた文章を誰かに見せた初めての小冊子である。それまで、雑誌のために原稿を書いてはいたが、自分が続けている文章ノートを公開することは無かった。というのは、それは大変未熟なものであるばかりでなく、未完成なものであったからだ。
 けれども、実際は、ノート一ページに書かれてある数文を引き伸ばして、散文の形にしたものを小冊子にしただけというのが、「旧散文物語集」の内容である。夜、物語を一晩にどれだけたくさん考えられるか、と試み、やっつけたものが、この本におけるおよそ「準備された世界」までの文章である。
 それ以降も、わたしは、この小冊子に対する愛着がずっと続いている。だから、断片的創作というものを自分の中での最も大切な方法として、今でも考えているのである。それで、去年、「散文物語集」という形で二度目の試みをすると同時に、それまでその時期に書かれていた同様の断片的創作をまとめて、「散文物語集」の完全版としたかった。けれども、それが予想外に大変めんどくさい作業であり、いや、やろうと思えば二日としてかからないはずだったのに、できなかったのだ。
 この物語集は、その出来以上にわたしには愛着があるものである。
 わたしがこうした創作に対する魅力をはじめて知ったのは、小学生高学年から中学生にかけて、しかも絵を描くことを通じてである。文章をパロディとして、そして絵を、特に人物画、それはリアリズムからデフォルトの漫画的画法にまで及ぶが、それをずっと続けているその当時、わたしは自分は当然のように将来は漫画を書くことになるだろうと考えていた。けれども、わたしには、まんがを一人で書くことは結局できなかったというほかにない。
 この物語集によって、わたしは昔からの自分に対して、絵付きの物語集を与えるということ、そしてもうひとつ、物語ならざる、何なのかも分からないものを表現する文章という二つのものを与えることができることで大変嬉しい。
 その二つは、中学生から当時までずっと夢のように思い描いていたが、さっぱり根気が無くてできなかったことであった。

街角にて

 復讐の世界は決して人間の世界だけに綴じられているわけではない。天突く大都会! われわれは聴く。鉄砲のような物音……絶え間なく流れる道路の残響……何かが高速で飛び去ったことを示す布をこするような深い響き……叫び声……うなり……明らかにそれと分かる人の声……あるいは雨の音だろうか? これは猫の声だ。猫が六匹、角に隠れて身を潜め、何者かを待ち望んでいる…… 目当ての犬がくるといっせいにぎゃわんとなき飛びかかり、五分もすると犬は残骸となって横たわる。かみ殺した猫はいっせいに当たりに飛び去る。あたかも石をどけたときの虫どもがそうするように……

複製人間

「ちゃんともってきなさいね」
「はい! 先生をぜひお貸しいただいて、あなたの立体写真を撮りたいのです。わたしはその実用性皆無の作品の誠実な研究により、先生の人としてのイデアの完全に忠実な表現力を鍛錬し、きっといつか思うがままの複製を作れるようになるでしょう。あなたのなんともいえない……らうたしさ……いじらしさ……平均的な発達……それらの表現を……」
「明日にはきちんと持ってくるのね」
「はい! そうしてもうあなたの動きなどを正確にとってその全可能性自由な表現力を獲得し、そこにわたし自らの創案による動きさえも付け加えられるようになるでしょう」

「あるいは恋かも知れませんね、これは。しかしその純粋な研究としての側面を考えていただければ、そのような低級な感情に支配されないこの動機が分かると思います。恋はその人本来の動きさえ愛するということでしょうからね。これは優しい視点なのです」

ベナレスにて

「おまえな、そんなに世の中のことを子供みたいに信用しているみたいだがな、昔も昔、世界の人口すら何万人しかいない時代に、インドで何も知らない人々の空前の国家ができた。石の宮殿に住み、今よりもずっときれいな水を飲み、今よりもずっと人々は戯れあい幸せに暮らしていたわけだ。そのおり、全く不合理に、どうしようもなく、アルテマという恐ろしいものがその人々を襲ってきた。人々はバターのように溶けて、意識も身体もないのにもがいて逃げようとしたよ。昔の石造りの宮殿は廃墟と化して岩石だけの形を残す。水は汚く濁り砂漠に付け込まれた土地には荒涼とした草原だけしかなくなってしまった。おまえ、世の中なんてそんなものよ」
「だからおれがいま研究しているのは、どんな整然とした数字でもめちゃめちゃにしてしまうようなランダム項なんだよ。その存在を無矛盾で証明できればもう、誰も働く気なんてなくなってしまうだろうな。生き甲斐をなくしてね」

私は裸を荒野にさらすのを厭わない

 ああ、見えるだろうか、恐ろしくありふれていてやるせない、荒野が又見える。私はなすすべもなくへなへなと座り込んでしまう、自尊心で購入したひどく高価な服に身を包んでようやく開けられるようになった私の両眼は、再び無益と非生産に閉じられてしまおうとしている。この帽子のせいで眼はひどくちらちらするし、かつらのせいで耳はほとんど聞こえないし、何も、この大きな道程を前にして、希望となる道具はないのだ。感覚はなく、まるで死を背負っているかのようだ。生き死にしたようなものだ。
 でも、聞けよ、おまえ、もういまでは、
 私は裸を荒野にさらすのを厭わない。
 たとえ、ひどく言い古された手垢だらけの言い草だろうが、言ってやる。
 私は裸を荒野にさらすのを厭うことはもうない。
 おまえは、私が非生産と怠惰の海へと乗り出そうとするのを目前にして、ひどく利他的な涙を流すことだろう。それでもわたしはこう言う。
 私は裸を荒野にさらすのを厭わない。
 くそっ、わたしは一体何枚の服を厚着してやがるんだ、ちきしょうめ! でも、まっとけ、
 私は裸を荒野にさらすのを厭わない。
 私は雑踏を歩いていた。私はそこの至る所に荒野が潜んでいるのを見出した。私がヒゲソリをするとき、鏡の向こうにやはり荒野が潜んでいるのを見出す。そこではひどく痛いだろう、ただひどく痛いということは分かる、石が裸の全身を打ち、熱は高まりつつ肌を焦がすことだろう。
 だが、私は裸を荒野にさらすのを厭わない。
 人は私をとても奇特な変人と呼ぶだろう。それなら、私は自分のことをひどく奇特な変人であると思い込もう。
 私は裸を荒野にさらすのを厭わないから。
 私は一回だけお前を荒野で見た。お前は、荒野でこっそりと、盲人に石を投げていた。それでもわたしは打たれに行こう。
 私は裸を荒野にさらすのを厭わない。
 仮定しよう。私は荒野の前にただ一人である。仮定しよう。お前も又荒野の中の加害者である。仮定しよう。世界中の人間は荒野の中の加害者である。仮定しよう。私は荒野を見ている。帰結しよう。私は荒野にはいない。
 私は裸を荒野にさらすのを厭わない。

T

 Tはだれとも文字の使い方が同じではない。Tは後ろから難渋に苦しむ性だ。Tはハープシコードを弾くことを覚える前に過去を知ることはない。ひどくかすれていてみすぼらしい、血を蒸留させて何度も塗りたくったようなそんな過去を。Tは愛を知る前に、いわゆる血の世間が一体どのような手段で彼を手なずかせていたかを知ったことは一度もない。血を蒸留させて何度も塗りたくったようなそんな手段を。Tは酒を知る前に、自らがどのような、かたいに囲まれて身動きが取れなくなっているかを知ることは一度もない。ひどくかすれていてみすぼらしい、血を蒸留させて何度も塗りたくったようなそんなに。Tよ。

改竄

 大火事があり、ひとりの少女が助けを求めてわめき叫び、刻々と声の力を弱めてゆく。怠惰と臆病と自立心の欠如の気まずい雰囲気のなか、一匹の犬がさっそうと猛火の舌をくぐり抜け地獄の口の中に飛び込み、少女をくわえて戻ってくる。……歓喜……脱力……表彰……人々はどっと明るさを取り戻し、笑い喜ぶ。が、おもむろに再びまたその犬は崩れゆく牙城と化した屋敷の絶望の城門をくぐり、本能的に死の道をたどり炎の中へと消え去る。……あぜんとした人々の前に奇跡的に戻ってきた犬の口には、人形がくわえられていた。人々は笑いをやめ、奇妙な沈黙の中に取り残されるのを感じながら、かの犬を見つめていた。

(物語「消防犬」より)

転落

 或る娘は己の人生の輝く絶頂期に早くも達し、幸福の累乗効果が留まる頃を知らない日々を送っていた。肉体と歴史が強烈に目覚め始め留まることを知らぬ生活! ……それぞれが小粒の宝石であるような友人たち! ……笑いさざめく波がまるでカゴメカゴメを思わす嵐のような男たちとの交流! ……彼女の前には宝石や札束の輝きがすばらしい果実のなる並木道が桃源郷があった…… 時代の文化を象徴しながら街を友人たちと滑るように闊歩する! ……ふと、前方から「彼女たち」が毛嫌いしている男が歩いてくる。男はかすかな完全な世界における汚点として微妙な空気を一団に及ぼしながら、ともかくにもはやくすれ違おうと。と、その時、男はよりによって彼女の眼を狙って微笑みかけた! 動揺! 嫌悪と怒りと恥辱と揺らぎ! 男の微笑みは絶え間ない嘲笑とうわさと物議と不公平な推測を醸し出しながら日々深まり繰り返され、よりによって彼女に降り注がれた! まるで彼女だけが男の微笑みの唯一の受け皿だとばかりに…… 転落の程度は怒りの目盛りへと変わり、屈辱の高まるさなか、ついに女は汚い歯を見せて笑う生き物に向かってこう問いただす…… 「いったいなんのつもりなの、このわたしにむかってぇ…ぇ…ぇ」男は笑いながら答える。「いや、ただね、あんたに汚い歯をぜひ見せたくって」

さばくのアメリカ

 月が丸い、真夜中、精霊が言うには、
「空の雲って白い森みたい」
 ぼくは驚き、そして言うには、
「それじゃ月は黄色い湖」
 何も答えず精霊は掻き消え、ぼくはアメリカ旅行の続きに入った。

 寝ぼけ眼で、「ここはどこ?」
 さもありなんと、「グランドキャニオンだ」
「キャハハ! たとえ、ここがグランドキャニオンだとしても帰らない!」
 赤いオープンカーはそれのせいで立ち込める砂煙よりも薄くなり、深夜にまた月が浮かぶ。ぼくは言う。
「このように車のタイヤに引きずられて生きるのも、これまたアメリカだな」
 だれも応えない。精霊も今日は出てこない。

カリーの踊り

 鮮やかな絵の具で塗ったような水色の川の前の景色にみずみずしい草とやさしいピンク色の鼻。はっとする、・・・・・・精神病棟から抜け出してきたと思われる神様にすべてを捧げた相を表す正直なやさしさとその性質そのものが見た目にもみなぎった娘が現れ、草むらで花を摘みながら踊りだす。素っ裸だ。白い河原に飛び出すと小石が撹乱されて渦のように飛び上がり、砂が舞って娘を覆い囲む。太陽が娘の身体を木漏れ日として見せる。深海のような空だ。かわいらしさ・いじらしさ・・・・・・ピンクの鼻が見える・・・・・・大いなる広がり・・・・・・虚無! 「何もないということはこういうことか。まさかこんなにも激しいものだとは」よもや。たまさかに。たまゆらに。白い河原。生きているということはこんな感じだよと教えてくるうるさい草ども。しっかりとした水面だ。パレットが黒に染まる。偽善という黒に。パレットの上に娘が限りなく微小化された形態を取り、踊りだす・・・・・・山を淡くする煙を唯一の食事としながら。この山谷川海を安心の家とし、動物はそれ以上にもそれ以下にもなる。神のように空の雲の上にいるわけではない凡庸な河原に踊る娘。

太陽の民37

・・・・・・地球に住んでいながら、・・・・・・おれは太陽の民だと思っている男がここにいた。あるとき目鏡で自分を覗いた彼は、しかしそこに自分の誇りの反証を見出す・・・・・・ おれは赤くない むしろそこれは少し緑青色で 「おれは太陽の民ではない」 何者? 息せき切って一人乗り用の黄色の映える透明がかったロケットに乗って・・・・・・
・・・・・・真っ黒なところに突っ込んだ!
・・・・・・星から光線が彼の身体を貫き、壊し、強烈な違和感が走る!
・・・・・・隕石が絶え間無く降りロケットを割り貫く!

     ・・・・・・ふと気付くと彼の目の前に太陽が大きく輝いていた・・・・・・

 メラメラと民衆は燃えていて、プロミネンスがまるで蛇のようにのたうちまわり、その飛び散るうろこの塊がロケットに当たり、真っ逆さまに落ちていく・・・・・・!

水の中の探検者の手記

 19、32年、グリンランド東部
おれは水だ、はたからみるとときには生きているようにも見えるがな。おれはすべてを自分のせいにしなければ生きてゆけないのだ、まるで赤ん坊のようにな。おれはまるで自殺前のヒトラーのように前進してゆかなければいけない、いましも指根っこを引っこ抜きたくなりながらな。おれは自分自身を時計のように見ている。おれは他人が計れないのだ、だからおまえらがいうとおりに生きていけるはずがなかろう。おれはいつも自分自身の分身に責任を負って苦しんでいた、いつもだ。おれは夢をもっていたのだ。しかし今はもう、それでさえも分裂しつつある。いい意味にも、逆の意味にもな。
 おれはそれでも大衆を捨てて、ラスムッセンとしてチューレを後にし、自分の足跡を消すべきだろう。そうしなければいくら暗い墓場のうちとはいえ、昔あの婚約者がそれで跳ねて宇宙に行ったあのトランポリンで、自分というおれ(?)をつねに削り取って、削り取って、そうして鋭く厳しい弾丸となってかけずりまわりさえもできないだろうからな。
 おれは比喩がもったいない。文がもったいない。1文字でそれはおれを越える。おれは実を言うと何物でもありえない。おれは無口だ。この口述もおれがおれの過去をすこし盗み見したそれだけのことなのだ。おれはその罪によってもう歩かないだろうしもう橇にも乗らない。 ああああ、犬たちはもうどこかに行ってしまった!

                      デンマークの国民へ
                       あるいは無二の友ピーターへ

           おれはすこし自暴自棄になりすぎた、旅ではないがな
               口が動か な  い  ・・・  ・

つんぼの悲劇

 すべての恋人たちは自分たちの愛こそが最も甘くもっとも切なく最も世間に邪魔されており最も真実で最も成り立ちがたいと思うものだが、確かにこのカップルの恋は周りが認める形でそうであったと言わざるを得ない。また、どこがそうであったかと言う問いにも答えることもできない。ともかく、そのお互いの想いは甘く燃え上がり、ささいな買い物が今生の別れであり、高まれば嫉妬に狂い、友人の賢明な助言は二日もすれば二人の愛を引き裂く権謀術数なのだと確信され、ささいな事で歓喜の絶頂へあるいはささいな事で絶望と争いの中へ、そういった関係だった。弦の振動のように二乗に反比例するその高まりは彼らにとっても拷問の法則でもあり愛の法則でもあった。・・・・・・愁嘆場!・・・・・・確認!・・・・・・抱き合い! だれが彼らにとって死というものがいかに身近であることを知っていただろうか。・・・・・・嵐と二日雨の中間のような日に、恋人の部屋から聞こえた何やら分からない音を汚らわしい音だと認知した女は正気を失い、そのまま首をくくって死んでしまう。女が縊死したことを知らない男は変化と奇跡と歓喜と不変の神である女の帰りを待ちながら、女が拾ってきてもう女性になった愛らしい猫と遊び続ける・・・・・・

転向と影

 一人の政治家が、圧倒的な上流階級の支持を受けて当選し、偽善政治を行った。上流階級! いつの世も彼らが事を決めることは言うまでもない。経済的上流階級、すなわち民主政体における上流階級のことを言っている。しかし・・・・・・! まこと神のなさることは不思議な軌跡であられることに、そこに当時に賢人哲学者と深く尊敬されている一人のホームレスと政治家の出会いが実現することに相成り、上流階級が彼を支持する原因となった彼の数々の美徳を粉々にし、かわりにだれにとっても何の得にもならぬ性質に目覚めさせられ、彼は全国民の非難を受けながらよい政治を行なうことに心を決めることになった。この展開! 転回! 彼の周りではあらゆる説得・あらゆる種類の泣き落とし・あらゆる種類の罵倒が繰り広げられる。(代々続いてきた彼の一族の中で。年下の愛人や心優しい彼の娘などからの完全に利他的な、泣き落としなど。)賢明にも彼の任期を待つ者さえ暇があったら口さがない非難を彼に対してすることに何のためらいもなかった。彼の古くからの友人であったすなわち上流階級の旗頭はこの滑稽話の裏を見抜き、たっぷりのコインをもってホームレスを説得に行く。そこで、政治家はホームレスのきれいな帽子や清潔なハンカチやめったに見られない笑顔を見ることとなり、こうつぶやいた。「しょうがないな」政治家はこの上もない全盛を任期いっぱいまで執り行い、引退した。

超能力者

 ある時代・ある土地に、人類史上空前絶後の強い意志力・精神力をもった超能力者がいた。彼の名声はというと、絶頂でもあり標準的でもある。・・・・・・というのは名声ほど簡単に操れるものとてないからである。すなわち、彼の能力はそれほどのものであった。他人の心や外界への力場の投射に飽きると彼は、自らの本能の赴くままに暮らすことを選んだ。彼にはなにもかもがいかに単純に思われたことだろうか? 彼の前にはいかなる開かれぬ問題もなく、遂げられぬ欲求とてなかった。・・・・・・退屈・・・・・・倦怠・・・・・・痛み・・・・・・ 彼は高山のごとくうぬぼれを高めながら身を切るような没落への欲望に悩む。彼は絶望が閾値まで高まった瞬間彼の前人未到の稀有な神からの贈り物であるところの意志力・精神力を込めながら、こう祈りを捧げた。「おれの思い通りになれ、わが世界よ!」そしてこのような能力にはあるものだが、それが届いたという強烈な確信がみなぎり、歓喜が股間から天頂まで貫く。放心した彼が再び世界を微妙な期待とともにうち眺めると・・・・・・ 人々の流れ・・・・・・眠くなるような売り子の呼び声・・・・・・突っ立っている間抜けな男の横顔。なんということ。何かがうまくいっていない! 何も起こっていないぞ! 変わらない・・・・・・いや変わったような・・・・・・どうでもいいふうに・・・・・・むしろ単調に・・・・・・よりつまらなく・・・・・・より退屈でより倦怠でより痛みに耐えがたく・・・・・・! ・・・・・・嫌だ!! 彼は今や、無意識のうちに自分の能力を使った。このいやったらしい世の中すべてが嫌だ、嫌だから言うことを聞け! ・・・・・・とたんに男は自分の意志力を失い、普通のくだらない男となって突っ立っていた。

屈辱の一瞬

 完全犯罪! それは高嶺の花という言葉から始まった。男は貧しさの中で奮闘し見事に地獄の底からはいあがり娘に求愛をする。絶え間無い求愛と全ての人にひと目で知れる男の誠実さのために娘は身体に反して男になびき始め、そこにいくつかの神の奇跡が介入し、・・・・・・パレード! 身内の喜びと陰口! 友人たちの喝采! 男の溺愛ぶりはだれにでも幸せと恥ずかしさと奇跡のごったまぜを感じさせた・・・・・・花嫁にさえ。しかしいかんせん、違いすぎた。祭りが過ぎるとそこから奇跡の醸し出す空気が消え去り、現実と呼ばれる過酷な裁き手が待ち受ける。娘の社交生活から男には絶え間無い嫉妬が与えられ、男の愛情はより深くより根を張った素晴らしい樹木にまで成長し、世間には見えない不協和音が出来立ての家庭に響く。そこに強盗が現れ! 娘を殺し金品を奪い逃走し、男にこの街で最も黒い喪服を着せる。妻を殺した夫はこの世の何にも比すことのできぬ愛する者の骨を常に身に掻き抱き、非人道的な愛をその無機物に捧げ続けた。男はその花嫁だった骨を冒涜し、匂いを嗅ぎ、さすり、断末魔のつかの間の映像をいとおしむ! ・・・・・・ある日、そのたえなる感覚と魅惑的な腐臭を放ち続けたその骨がほんの一瞬・・・・・・むろんそれはほんの一瞬間だけだったが・・・・・・男に嫌悪を感じさせた。その前日、彼はどうということもない平々凡々の女に求愛されたのだ・・・・・・

墓泥棒

 ブルジョワ生活を模しつつも本当は生まれつき根っからの盗人である或るおとこが共同墓地に眠る宝のうわさを聞き、十月の最も白んだ夜に人目を忍びつつ恐ろしい道筋をたどり墓地に入り込み、獣の集中力に自分でもおののきながらここぞという墓を掘っている。・・・・・・身内には宝を所有する複雑な隠蔽計画のうねりから来る強烈な興奮を感じつつ・・・・・・まるで自分の全存在はそのために作られているのではないかと言うほど全体的に行為と一体となり・・・・・・男は掘り進め、悦びに酔いしれつつも、出てくる人の骨や猪の骨などに疑惑の脱力感・落下感を感じ、男の想いの波は高まりゆき尽きることを知らず、全部掘り終わり、急激な失望と策略の影の中で・・・・・・ その時! 急に辺りがパッと映し出されてこっけいさを赤裸々に暴きつつも大勢の警官たちが飛び出して来て男を拿捕した!

或る同性愛者の粗述

 恋愛におけるさまざまな技巧にも今世紀にもなれば一種の変化が現れたことを否定する有識者はいないと思う。ある男の事を愛した男がいた。好きで好きでたまらないというのが彼の意見だ。愛する男のしぐさ・職業・性格・のんけの様・不器用な愛情と優しさ・どれをとっても素敵だ。どんな博物館でもそれほどの出品をすることはできない。愛する男にたいして彼はどんな慈愛でも注ぐ。彼のもとを離れてゆくあの強烈な喪失感をさえ避けられるならば。彼は愛する男の女の友人あるいは女性あるいはあまねく女性にことごとく愛する人の悪いうわさをたれこもうとする。愛する人はその純朴な正確に比して危険な男だという評判を獲得し、なぜかまんざらでもない。男は愛するおとこにこう言う。きみは全くのドンファンだが、それにもかかわらず本当は純朴な一男に過ぎない全く不思議な男性だ、と。彼がそんなふうにふるまえるのは彼が男を愛する男なのだ、という隠された事実があるからで、これが男を愛する女だとするならばその動機はたちまちのうちに日の目を見ることになってしまうだろう。しかし、彼の愛がある種の決別に行き当たったなら?・・・・・・

法律

 犯罪者を作るのは法律である。では法律を作るのは?・・・・・・ これも一種の法律に過ぎない! 犯罪を作るのは法律である。では法律を作るのは?・・・・・・これも一種の法律に過ぎない! ある殺人者がいた。彼は法律を被告人とし、衆人の話題をさらった。というのは自分は非常に無学な男であり、殺人などという高等な行為がまさか自分には思いつくはずもなかった、と言うのである。自分の家族や友人や愛人もまた非常に無学な輩であり、わたしに殺人というものの存在を教えてくれるはずもない。では彼に殺人という行為を教えたものとは何であろう。彼は言う。それは聖なる書物ではありえないことは確かであり、本やテレビが教えてくれることもなかった。どうして人を楽しませ、人をよき目的に導くものがそんなことを教えるだろうか。そんなことはありえない。――では、おまえに殺人という行為を教え、強いては起こさせたものとは一体何かね? 法律です。法律に違いありません・・・・・・

文明に隠されて

 文化人類学なるものに公平になろうと思えば、その研究結果のうちでひどい失敗だけが衆人の眼に触れるのであり、その大成功であり研究の精髄なるものは決して衆人の眼には触れないものだ、ということを念頭に置いておかなくてはならないことは次のような話で分かる・・・・・・ 類人猿に完璧な教育を施し出来る限り人間に近づける研究を行っていた無名の天才学者がいた。ひとまずは赤ん坊の類人猿を手に入れ、彼の研究の精髄である方法で言葉を仕込み、社会生活というものが一体何なのかを教える。学者は或る程度の教育を施すと、貴重な結果である類人猿の毛を剃り骨格を矯正し、やもめと偽って上流社会のさる婦人と結婚する。彼の息子は家族の長男として出世街道に乗り、母の社交性と父の学名の影でひっそりと人間の生活を覚え続ける。彼は母の妹の娘と恋愛に落ち、愛の巣を作る。そこで、両家ともに納得し、結婚と相成る。彼のいとこの娘はこのお堅いいとこに対する未曾有の愛情と強烈なサディスムで新婚前夜に彼に襲いかかる。彼は魅惑的ないとこの娘の思いに応え・・・・・・
 幼妻は叫ぶ! 「あなた、サルね!」

奇跡の昇進

 唖で聾でろくにしゃべれずびっこで奇形な男が自分の身体やその障害をネタにしてお笑い界で大デヴュー! 各種マスコミ絶賛! 海外障害援助隊からの祝電! 各地の障害に悩む子供たちからの熱狂的なファンレターや耐えることを知らない求愛者たち! 正常者・非正常者問わず大人気! うなぎ登りの株! 「誠実そうな男」「抱かれたい男」投票一位! 彼は本当に笑いのつぼを知っており、彼のコーナーはボタン要らず(何と地球に優しいことだ)の大盛況! パラリンピックに多大な影響を与え、障害者たちには夢と正当化を与え、紅白にはちょっとした感動を、24時間テレビには笑いと歓喜と激情と絶え間無い興奮の手紙を舞い込ませた! 彼の魔法のようなアドリブは文字にならない教科書として芸能界に流布し、バラエティやドラマにおいては独自のジャンルを開拓させた! ・・・・・・そして彼は自殺した。彼に終始好意的であり続けたある週刊誌は一週間ごとに新たな死因を発表する・・・・・・ 隠されたイジメ、隠された嫉妬、隠された不仲、隠された愛人(またはそれに付随する隠された性的癖)、隠された金銭の動き、隠された孤独・・・・・・ 彼の生涯に対する苦慮・・・・・・ 苦悩・・・・・・ だれにも暴かれなかった最も親しい正常者である友人に当てられた手紙(これが唯一の遺書と呼べるものだった)にはこういう台詞があった。「愛する仲間たちは本当に心からわたしの成功を喜んでくれた・・・・・・ が、しかし、最後までわたしは彼らのことを信ずることはできなかった。・・・・・・」だれの?

ありがとう

 どうも、人を忘れ去る酒を飲みたいところだよ! 狂いたりないほどだ! あたしの恋人よ! あたしは笑う。
 あなたは天才発明家だわね。あたしにいつか作った発明品のリストを見よ!
 水飲み機。口洗い機。外暖房。地面靴。糸が洗える水。顔を変える輪ゴム。身体と心を離す馬。耳掻き綿。綿を詰めたボール。外電気。空気を使った疑似永久機関。そして美しい調べを持った新言語。心の動きをそのまま記録する機械。アラユル現象を捕らえる新感覚。 ・・・・・・そしてこのあたし。

幼子の歌

 彼は高三のころから不思議な感覚に迫られ続けるようになった。それはかれに真実の家族・真実の友人・真実の恋人・真実の愛・真実の何物かを感じさせた。彼はそれを感じる。しかしそれは遠のく。いやどういってもおかしくなるような恐るべき非交流のさなかの出会いであった。彼はそれに近づくために随分骨を折る。それはなにか? どうすれば自分に親しむようになる? どうすれば通じ合える? ひとつの捕獲網、科学と哲学の学習。彼は表現する暇も能力もないまま思考に没頭する。夜、たえず遠くまで散歩する。川辺を通り、水の音を恐怖し、初めての蛍を見る。彼は毎晩それを欠かさなかった。そしてどの晩にもほかの晩のことを一つも思い出せなかった。
 思考のさなかに、かれはそのような思考の渦を一年前にも体験していたことを思い出す。あのとき彼はこう嘆き続けていた。もう少しで《あれ》にたどりつけそうなのに。ほんのなにかがあれば新しい世界にいけたはずだったのに。
 汝はわれにたずねる なぜ一人留まるのか われ答う なぜ二を選らぶか われ生きる価値の無きものなり
 空よ、われの真実の友よ 海よ、われの真実の親よ 木々よ、われの真実の教師よ 畑よ、われの真実の保護者よ 花よ、われの真実の妻よ
 歌え 唱えよ われは一にして無のものなり

だれがいい奴だ?

 因果関係の謎はいまだにどんな秀才によっても解かれていない。ある貧しい国では・・・・・・ある商社のある普通の会計係が一回キーを叩く。すると、六人の人が死んでしまう。この知らず知らずのうちになってしまった断罪人はそのことを知らずにいる。しかし、ある年に画死者数が6パーセント減ったのは、国連の政策や国の政策が功をせいしたせいでもなく、これも目立たない或る心の貧しい人事課の上役の個人的な感情のおかげであったといっても、だれもわたしを信じるものはいない。

準備された世界

 ・・・・・・完全に準備された世界がある。この外に出ることは果たしておれにできるのか。・・・・・・広い・・・・・・広くて大きい・・・・・・つかみとれぬ・・・・・・果てしなく・・・・・・ 見渡す限りおれの眼を覆い尽くす・・・・・・ おれは感じる。・・・・・・どこにいっても・・・・・・どこまで逃げても・・・・・・おれにはずっと何かが聞こえ・・・・・・おれにはずっと何かが触れ・・・・・・おれにはずっと何かの匂いを嗅げ・・・・・・おれにはずっと何かの感じがするだろう! そこには目覚めるか、目覚めないかの違いしかないのだ!
 動物でさえ、寝心地をよくするためにあるいは安全を享受するために巣を作るのだ。おれのこのはだかなようすはなに? おれにはこの世界から逃げるための巣を作ることができない。
《しかし、ずっと感覚がなくならないことはない。感覚がないときにすら意識はある。しかし、ずっと意識がなくならないことはない。意識がないときにすら魂はある。しかし、ずっと魂がなくならないということはない。・・・・・・ ・・・・・・ ・・・・・・》 ・・・・・・

ナルシスとエコー

ナルシス「ぼくはのどを万力で締め上げるほど馬鹿じゃない。妖精エコーに言葉を預け、忘却の水を飲むためにうめき続けるだけだ。
 なあ、エコーよ。もうぼくにかかわるのは止して、おまえの天分である音楽に身を入れるがよい。」
エコー「いいえ。わたしはあらゆる魂に束縛されません。声だけがわたしを縛り付ける・・・・・・そして時間だけがわたしの作用素。」
ナルシス「おまえは忘却の水を飲んでいないのかね。」
エコー「・・・・・・」
ナルシス「しゃべれよ!」
エコー「・・・・・・」
ナルシス「ぼくは忘却の水を飲み、声にならぬ声でうめく。するとエコーがその声を実にみすぼらしく復唱する。糞尿の立てる匂いのような音だ。」
その声「無視された・・・・・・恥ずかしい・・・・・・殴られて恥ずかしい・・・・・・無意味・・・・・・意味なし・・・・・・言い訳できず・・・・・・迷惑できず・・・・・・存在できず・・・・・・無視された・・・・・・ぼくはいつも死ぬまでずっと他人の言うこと聞いて生きゆく・・・・・・悲しい・・・・・・ケンカ・・・・・・イジメ・・・・・・逃げろ・・・・・・盗んで蹴っていじめて泣いて・・・・・・貢いで褒めて笑わし無視し・・・・・・だれもぼくを見ず・・・・・・恥ずかしくて恥ずかしくて・・・・・・これは罪だ・・・・・・無意味は罪だ・・・・・・ぼくはいっそ存在を消した方がよろしい・・・・・・死ねばよろしい・・・・・・死んでも視線ゼロ・・・・・・恨まれ蹴られ憎まれ役に立ちたくて恥ずかしい・・・・・・かってやる・・・・・・おまえらをかってやる・・・・・・飾ってやる・・・・・・おまえらを飾ってやる・・・・・・成功の周りをうろつき・・・・・・恥辱に染まり・・・・・・地球が恥辱に染まり・・・・・・後悔の呪いでうめき・・・・・・こぶしをゲロで埋め・・・・・・眼をキリで突き刺し・・・・・・ぼくはおまえらが呼吸できない悪い空気になって呪い殺してやる・・・・・・」

ある宗教とその教祖

 新しい宗教の教祖。彼(彼女)の教えはすべての悪・不安・矛盾・複雑さは自分からの帰結である、というもの。信者数は増える一方。朝は彼をリンチ(強姦)、昼は彼を誹謗(言葉攻め)、夜は彼の偶像に一撃を食らわす(エスエムプレー)。彼(彼女)は永遠の命をもつ。死んでしまうと苦しみが去ってしまうではないか。彼(彼女)はもう自分の宗教のことなど考えない。彼(彼女)はただ思う、『大丈夫だ、大丈夫なんだよ』。その聖典は長安(パリ? ニューヨーク?)風流進士の机の上に置かれている。

俳句数編

 ・・・・・・精霊は眠り、もう眼を覚まさない。
 火の車、わたしの顔を見えなくす。眠り就くかれの身元は暖かい。モヘンジョのアルテマ来てはあを潰す。どぶにはゆ洗剤浴びる緑あり。われにさえ厳しさありとむせび泣く。

オーラ色彩占い

 黄色い光、幸せで笑い死ぬ。赤い光、幸運で無為を許される。白い光、賢明で行為の道。青い光、じゃじゃ馬ならしあるいは倦怠の皆無。黒い光、能動的な大量生産。橙色の光、己の恥ずかしい生存を許される。紫色の光、思いがけぬ物あるいは未知であるものを発見。緑色の光、行為の許可あるいは認定。エメラルド色の光、未来に先延ばされた幸福。灰色の光、成功あるいは到達あるいは結末。空色の光、健康と活力の逃れがたき刻印、なすがまま。トパーズ色の光、それに対してたった一度きりの(空前絶後の)近接を行う。赤洞色の光、禁止された未知あるいは唯一の快楽。れもん色、たまご色、止められず逃れられぬ最低の状態。

久保くん

少女A:あれっ? 今日、久保くんは一緒じゃないの?
少女B:何で? いつもいないよ
少女A:いいえ そういううわさもあるんだから
少女B:おえっ この前さ 変なところが気が合っているって久保くんに言われた しかもあっちのほうから ひどくないけ?
少女A:ねぇ? 今日の朝さ、夢を見てさ、電車の中で久保くんがつりかわにぎっているところにわたしが抱きつくの
少女B:えぇー?
少女A:そして「ぎゅっとしないでね」って久保くんが言うの
少女B:えぇー? ふーん?

われらがマルクス

「革命家さんですか?」
「はい」
 私はタクシードライバーにそう答えた。彼は言った。
「マルクスは難しくてよう分からんですな」
「いやマルクスって実はものすごく楽しいですよ」
「いや分厚くって日本語じゃない日本語ですな」
「いやマルクスってすっごくおもしろいんです」
 私は革命家の常識としてマルクスを常読しているふりをした。
「もうあれですよ? わたしほどになるとですね、十四歳の少女、そいつはものすごく大きくって形のいい胸を引っさげていて、歩いているだけでキスしてしまうぐらい厚い唇をしている、そいつが書いた文章に見えます。そのように書き直したりしますよ。『共産主義という怪物が来ちゃった!』みたいな、ね?」
「うひゃひゃ! その少女は可愛いですな、マルクス読んじゃおうかな、わたし?」
 そのとき私は『魂の』革命家としてマルクスを侮辱したこのドライバーの本質的狂気に吐き気を催した。マルクスに対して「うひゃひゃ」はねーだろ、死ね、と思った。同時に、『偽』革命家としての自分に吐き気を催した。神々しい生き方としてマルクスとエンゲルスが高い頂の上に輝いているのが見えた・・・・・・

交換手さん、こいつをお願いします

 私の幼馴染のSが酔っ払っている。堅物で有名でちょっと信じられない。
 今、ちいさい子供がよくやるように私と眼を合わせては隠れるということを繰り返している。どんな誘惑だろうか?
「ねぇ、Mくん、石川主任とは結婚したことあるけ?」
「あぁ? 石川主任? 結婚? あるはずないでしょ?」私は驚いた。「誰? それ」
「・・・・・・石川主任はね? たくさんのおとこと結婚しているんだよ?」
してやったりという顔で私を見上げた。私の耳にはその表情はかたや私は生涯独身と聞こえた気がした。
「いや知らないよ、そんな人」と私は答えながら私自身酔いが回って「早くすませちゃいな」という感じで身を任せつつあるSにキスをして身体中を触っている。まるで石みたいだった。水気が無くって苦しそうだった。処女かもしれない、と思ってSとひとつになろうとしたが、身体が絡まって身動きが取れなくなった。私は、「ねえ、キスをしてよ」と言ってSをぎゅっとしてキスをした。「かいしょうなしのM」とSはつぶやいた・・・・・・
 故郷に残している幼馴染のSに会いに行ったとき、私とSが座って黙っているのを見ている仲間がこう言った。
「・・・・・・あんたたちさっきから全然しゃべらないけどもしかして好きあってんの?」
 私とSはビクリとする。
「もしかして一度話してしまえばとめどなく気持ちがあふれるから黙ってんの?」
 そしてそいつはこう叫んだ。「ありえない!」
 怒って仲間の一人が入り込んできた。「何でこんなことやってんの? 本当に?」
 その後私とSは二人きりにさせられ、そしてお酒を掻き込み始めた。
 壁がそこにはあった。宗教的なおきて。かいしょうなしのわたし。

死体を前に

「ね、ね、わたしたちって苦しい苦しいってよく言ってはいるけれど、でもさ、実際これ以上良くなるのって無理じゃない。ね、この苦しみが本当はベストなんじゃない。でも、あなたもわたしも決してそうは思えないのよね。信じられないくらい鬼なくらいわがままだったよ、ね?
「わたしって、いつも負け犬のため息を話すけれど、それでもあの電灯の下でモーツァルトを聴いて泣いたときにやっぱりみんな、みんながかわいそうなんだと思えたのよ。それでもみんなは決して負けを認めないんだ。やっぱり、いつものように神様と電子レンジに祈るんだわ。そして朝には食べきれないぐらいのエッグトーストを食べるんだわ。そんなふうに思うと、わたくし、いつも世間様にたいする優越感がわきますのよ。わたしたちって、結構進んでいるのだわって。分かる? いいえ、何もそんな眼で見なくたってわたしは自分で自分くらい裁けるわ。それに真ん丸い金色に輝くお釈迦様はいつだってみんなを許し続けているのだから。だから悲しみを知らない眼で睨まれたって殴るまですごまれたってわたしだって強いのよ、といえる口がわたしにはあるのよ。
「わたしは人ごみの中を一人で歩いて買い物だって出来るのよ。何も傷つかずに帰って来れます。頑張れます。いつか、トランプのカード当てをしましたわね。わたし、いつも思うの。わたしはいつも誇りのカードを引き当てるんです、と。それは車のナンバープレートに隠された国家機密なみにどうしようもない真理だとしてもあなたのいうように小さな秘密だけが民衆のためになってくれる唯一の力なのよ。わたしはあなたに隠れてひとつの秘密をつかんだの。茂みの中から車のキーを拾って、おずおずとしかししっかりと走り回る、誰かが走り回るためにわたしは犠牲になるの。あなたがあなたの世界でゆったりと時を過ごせるためにわたしは今から準備するんだ。よかったわね。
「わたしの言っていることが分かる? 酷だから話すのだけれどわたしは怒っているんだ。わたしを無視しているからみんなからウソをつかれて苦しむんだわ。一人おびえて墓石にすがりつきここから出してくれと狂ったようにわめくがいいわ。わたしは決して埴輪じゃないわ。肉塊なのよ? 不潔なくらいにうごめくの。わたし、怒っているわ。大声でわめくわよ。きっとみんなあれはヒステリーだとか言ってあなたを苦しめるわ。わたし、それが大好きなのよ。
「それでも、もし、それでも告白は罪を和らげるのなら、わたしを許してちょうだい。許してよ。
「誰か、その眼は嫌だってあなたに教えてよ。そんな眼は嫌だ。利口ぶってサインを使って城を壊したとき、あなたはそのことで泣いていたわね。いつまでも苦しむがいいわ。ナイフが首筋に着く瞬間まで脅えるがいいわ。一人で。ひとりで。わたしが黄色いタオルを持って駆けつけるとあなたは声なき声でうめいて光り無き眼でわたしをにらむんだ。そう、その眼でよ。それでも世界中が空虚になったときにはあなたはわたしだけにタオルを投げなくちゃいけないの。その屈辱の瞬間が待ちきれないわ。じれったい。歯がみしてしまう。うれしくてうれしくて歯がみするのよ。こうやって。ほら。いつまで、その超然とした態度がもつかしら。偉そうに、慇懃に。犬にえさをあげるようにさげすみあい。そりゃあ、わたしだっていけない同情心をもってはいるけれど、ただかわいいからといって毛を梳くのは反則よ。その犬はただあなたにガウッて言うわ。
「わたしが意地悪だって言うのね? すこしは意地悪くらいしないと自分を保てないと考えて許してはくれないのね? わたしが群集に埋もれて消えて自分でも自分を見つけられなくなるほどにもうろくしてゆくのをただ眺めるのね? わたしを妄想狂だって言うのね?
「部屋に入るとすぐにエリザベス朝のピアノがあるといいわ、といったとき怒ったわね? でも、わたしだって無為が好きだわ。好きになりつつあったんだから。波打ち際の月を見て只のような興奮だって味わえるわ。いまや。思い出そうとすれば、たくさん思い出せるんだから。無知。無知は罪よ。
「なんか、わたし、どんどん死んできたわ。話せば話すほど死んでゆくわ。あなたがそんなふうで、わたしがはしゃげば、あなたはそれと同じくらいわたしを殺してゆくのよ? まるで残酷な決闘ね。わたしは避けてきたわ。まったくの犬畜生・・・・・・」・・・・・・

愛の囁き

 してくれる させてくれる
 本当のこと が 言える
 しらふでは言えない言葉で
 言ってくれるから

 してあげる させてあげる
 本当のこと を 言って
 しらふでは言えない言葉を
 言ってほしいから

 してみせる やってみせる
 本当の 姿を みせて
 しらふでは言えない言葉を
 言ってあげるから

 してくれる やってくれる
 本当のこと を 教えて
 しらふではできないことまで
 やってほしいから

笑い女

 キス、遊園地、食事、公園、帰りのキス、拒食、ヒステリー、婚約、すなわちデートのフルコース。彼女がやり遂げたのはそれだった。
 男はわけもわからず彼女の実家に呼び出され、彼女もこちらを水厳粛で不機嫌そうな顔、どうしていいか教えてくれない。しかし気分的には分からんでもない。
「お嬢さんを幸せにします、下さい」
 と土下座する。彼女は自分の部屋のベッドで泣いている。顔を伏せて・・・・・・ いや、笑っているのだ。顔を上げると「あのときのあんたの顔・・・・・・」と言ってはまたクスクスと笑い続ける。「忘れてた」と涙をふきながらえんえんと男にキスし続ける、いたるところ公平に平等に。

 そのとき彼女はなんて美しい娘なのだろう、と思った。腹を折り曲げて笑ってぼくもつられて笑っているふりをしていたが、今まで見たことも無いほどひきつけられて「今だチャンスだ、逃すな」とたえず声が聞こえる。彼女は言う、「知ってた?」耳に近づけて、
「知ってた!?」
「いいや知らない」
 すると早口で子供が秘密を打ち明けるように、
「わたしの歯はダイヤでできてるのよ」
 と言ってクスクスと笑い続ける。笑い続けているがぼくが分からないでいると、また近づいてきて、
「ダイヤでできてるからどれだけぶつけても壊れないのよ」
 と言ってまたくすくすと笑い続ける。箸が落ちても笑うというやつだ。「つまり キスして。要するに キスして。キス、キス、キスして。」ぼくの頭にはそんなわけも分からないナレーションが流れた。

 笑い続ける女。発作に違いない。テーブルのものをすべて払い落とし時計を壊して、おふろに顔を突っ込んで、ふらふらと笑い続けている。この女が笑い続ける一時間ほどぼくはずっと女を追いかけて観察し続けている。何と美しいのだろう。笑いは、人間の顔から固有性を奪う。つまり脱領土化していた顔は身体によって再領土化されて踊りと同じように身体性へと拡大するのである。ぼくはその日あまりにも興奮しすぎて、ズボンを下ろし、その女を見ながらマスターベーションを始めた。女は一瞬ぼくの方をみたがさらに激しく笑い続けた、「あなた、ああ、それはいいわ! また、また、たいした、思いつき! あはは・・・・・・」

幼女養女

 借金のかたに九歳の少女が売られてきた。あるとき、わたしは昔からの同級生の親友に、「九歳だからといって触りもしないんですか?」と尋ねられる。「触りもしません」オォという声。「でもあの容貌ですよ?」わたしは説明した。「いいですか? 別にわたしが望んでこちらに売られてきたのでない。ただの経済上の理由によってです。いつどうなるか分からない。固定もされてない娘をどうしろというんです?」親友はなお怪訝な顔でわたしを見ていた。

 養子に来た娘が言った。
「九歳だからといって触りもしないんですか?」
 怒っている。「それで申し訳がたつんですか?」
「いやね、普通はひとめ見てどうとか是非家に置いておきたいとかあるのだがおまえの場合は違う」わたしは言う。
「どう違うんですか?」
「つまり、お金だ。おまえがお金に困っているからただ便宜上ここに置いているだけのこと。それ以上の必要もなく、関係もそれ以上・・・・・・」
 娘がその時するどく言葉を捕らえた。
「関係って今わたしたちどんな関係ですか?」
「父と娘だ」
 そう言ってみたが、
「いや雇い主と労働者だ」
 いやそうは言うが、
「言葉にならない」
 その言葉を聞いた娘は繰り返した。
「言葉にならないじゃ親が納得しません。親は世間を気にします」
 じゃあ、
「婚約者だ。しかし触りはしない」
 娘の眼はようやく少し落ち着いた。
「交渉は続けるつもりです」
・・・・・・

 母は言った。「最近、近所に、鬼が出没するから、スコップを渡しておくから」「銀のやつ?」鬼は人を食べる。鬼は外骨格だ。鬼は群れる。鬼はハンミョウのように動く。鬼はアリのように人にしがみつく。ぼくは、町の裏のほうに鬼の巣があることを知っている。ある日、いとこの家に、鬼対策の話をしに行った。帰りに、その従兄弟の子と、町の裏を通って、ぼくの家に向かった。ぼくの家には謎とスコップがあるから。ぼくは鬼の巣を発見した。くぼみから見上げたところにある半径五十センチぐらいのコンクリートの筒の奥に十体ぐらい鬼がひしめいているのが見えた。従兄弟の子は小さいのに、ぼくはスコップを持っていることをいいことに誘ったのだ。正直言ってぼくは、スコップをうまく使って鬼を殺すことができるか自信がないし、本当に鬼はスコップを恐れているかすら怪しいものだ。でも従兄弟の子が鬼の巣を見上げている様子はとてもかわいくて抱きしめたいぐらい。ぼくは恐ろしかった。もしも、もしも、この子がいつの間にか消えてしまっていたら。ぼくは、きっと、傷つき崩れ落ちてしまう。ぼくは海辺の子のこの家の前で誓うだろう。鬼を罠にかけて、ありの巣を水浸しにするように、一網打尽とする機械を発明するまで枕を高くして寝ない、そして、その機械を使って目的を達成したらぼくもその機械にかかって自殺することを。そのとき、一緒にやってきていた妹が、早く帰ろう、と言った。

 山奥のまた奥の滝の上の丸太小屋を住居と定めた猿のキッキは、朝目覚めると常に太陽に命を吸い取られる。そして目をひん剥いて白目になって両手無様に倒れて、運の悪いときには頭を石にしたたかぶつけて、閻魔様のところまで往復マラソンと来る。だが、キッキは実は死ねない。何故か分からないが、遺伝子変異か知らないが、まったく老化をしないし、不死身に肉体を持っている。そのような身に生まれつき、もう既にたくさんのことをたくさんの時に嫌悪して、時には何もまったく起こらないものの、そんなこんなで森の深い霧の中に小屋をおったてたのだが、万物の霊長たる太陽はいまだにキッキをそのオレンジ色の舌でなめてくるのだ。太陽のオレンジ色の舌は梅雨時には真っ白な蒸気を立ち込めさせ、森からその永遠性を奪い、あるいは有機体に火をつけてたくさんのサラマンダーにその小さな舌をして気持ちのいいが悪いことをさせる様子は実に部外者には絶景だといえる。キッキは夏の間はずっと倒れている。そしてある朝起きると雲と月が太陽を覆い隠してくれているのを見る、その時点でもうそれが朝ではないのでキッキはその度に何か自分の気づかないところで騙されたような絶望を味わったものだ。が、そのうちに急に身体が自由になる。外はいまだに薄暗く、太陽のあるはずの地点を見ると黒い穴から太陽は頻りと外に出ようと無数の手を伸ばしている。キッキは木々を飛び飛びはしゃぎまわる、千本以上の木々で遊びまわる。ところが、最後の木には弱りつつも生き延びたサラマンダーがいて、それは実に米粒ほどの大きさだった。しかし必死で生きようとして小さな舌で有機体を取り込もうとしている。キッキはそれを踏み潰そうとしたのだが、大きな力をどこからともなく感じて、もういいや、と再びどこかに遊びを求めて立ち去ってしまう。今度は風の精霊のシーフィーがやってきて、途端、小さな火を煽って森は明るく赤く燃されて光った。ありとあらゆる樹木が赤く熱せられた、そんな中、はじめてシーフィーは空中高く太陽に向かって飛ぶことが出来て、その悲痛な愛のこもった両手で月と雲を取り払う事が可能となったのだ。キッキは汚らしい砂漠の廃墟で死体となって干からびているというざまになった。太陽の境界が大地へと近づき、あたりを含んでいくうちにキッキは再び永遠へと旅立ちはじめる、こうして地球最後の形あるものとしてのロボットキッキはまた何度も何度も死にながらもロケットの操縦桿を握って飛び回ることになる。

ミレヌナの物語

 生そのものを生きるよりも憎しみを生きることを自ら好んだ怪獣ミレヌナは、今日もエジプトの太陽神殿をドタドタと品なく暴れまわっている。その両目にはナイフ、その口には破壊的な小道具が詰め込んであり、それらは彼の為すことのみならず彼の姿をも不気味に見せている。そこへコンドル、美しい青色のコンドルが、曇り空を背に滑り降りてきて、廃墟を優しく照らし出すと、あちこちの石が崩れはじめて青い炎を噴出し始め、そこで怪獣ミレヌナも慌てふためくざまと相成る、暴れだしてどうも何も手につかなくなる。果たして生きるためには何が必要かといわれれば、小鹿の肉以上のものを思いつく事ができない怪獣ミレヌナは結局たまらずに飛び出し、緑の山に隠れこみ、氷の湖を見張ることにした。そこに何よりも欲しい獲物が一頭も来ないことにいらだって水に飛び込むと、とたんに湖を囲む茂みから小鹿が飛び出し、その小さなたくさんの角々でミレヌナを突き刺した、その数四十九。バンビはその後に大きくなったそのうちの一頭だが、結局ミレヌナの正体について究極無知のままその気高い一生を終えた。その小鹿集団の最後の鹿が死に絶えると、その子供さえも一頭を除いていなくなる、その一頭が大きくなってくるにつれて、醜悪な様子を見せはじめ、それは終にミレヌナの一化身と化してしまう。その汚いゾンビー鹿には二対のナイフのような翼があり、空を飛ぶときには雲を切り裂きながら光速で空を滑空するのに非常に役に立ち、その光景は視力の悪いものにとっては実に美しい光景であろう。しかし彼が空を飛ぶにしたがって、そこにはたくさんの彼の仲間がいることに次第次第に気づき、そして彼もどこか遠くに消え去る。だが、その一化身としての姿さえも実は湖に映った偽者の姿に過ぎない。

太陽王子断片、食虫草とのエピソード

 その名も太陽王子。どちらかというと、仏陀的個性。彼は放浪生活を送っている。
 あるとき、高い山に登り、息を吐き、疲れ果てながら、下々ではテプイと呼ばれる人智の及ばぬ地帯に足を踏み入れたときがあった。
 王子が、旅の一時的な疲労を緩衝させようと、風の通らない涼しい岩陰で休んでいると、自分に気付いていない一本の食虫草を遠目に見つけた。顔を上げて立ち上がると、いつのまにか、木漏れ日が直射に変わっており、王子は、姿勢をもっと楽に変えて座りなおすと、再び、じっと、食虫植物を見つめ続けたのだが、その観察は次のようであった。その植物は、じっと、動かずに、何を意図する様子も、緊張をみなぎらせている様子もない。むしろ、小さな草花、しかも人間に飼われた植物のように、ただひらひらと舞い、醜い食胞を他の花のようにおしゃれなつもりで振り回す。その様子を見るに、気取ろうとしても気取れない、非常に無力な様子であり、戯れに匂いを振りまいてみるものの、それもいっかな堂に入っていない。毒々しくはしているが、どうも見当はずれなほどに無能力な様子なのである。虫の類が、花の匂いがしたとやってきても、食虫植物と分かると、腹立ち紛れに身をくねらせて、去っていく。鳥も蜂もがっかりさせられ通しなので、通り過ぎていくだけである。観察しているうちに、その毒毒しい身なりも、ただの窓際社員の無愛想に過ぎないのではなかろうか、と思われてくる。王子は、特にそれを哀れだとは思わなかったが、かえって好奇心をそそられたようで、その生命の不思議を、すなわち、その生存の現在までの存続と、今の実態に思いを馳せ、その観想の悦に浸るのであった。と、そのとき、一匹の虫が罠の匂いにふいに惹きつけられて、袋に落ちた。王子は、その瞬間があまりにも、意想外で、興趣を感じたので、岩陰を駆け出して食虫植物に向かってこう話しかけた。
「きみは、どうして、単なる草に過ぎないのに、虫を誘い出し、それを食べるのだね。その虫を食べなくても、土の養分だけでやっていけないのかね。それとも、この枯れた地にはそれだけのものが無いのかね。それとも、君が、下手なのかね。どうして、虫なしで細々とやっていけないのかね」
 食虫植物は、自分の誇りを傷つけられて、むっとして、こう言った。
「あなたは何を言っているのだ。これは一つのやり方なのだ。生き物はそれぞれ一つのやり方にしたがって生きている。それがないのに生きているあなたたちには分かりませんかね。昔はそういったことをよく知っている人間がいたものです。今では、そんなことも伝わらなくなって、自分の感情で判断することがまかり通っているのですかね。人間にも一山当てて、後は楽に暮らそうという人がいるでしょう。私は、この一匹の虫を食べれば、後は何も食べなくても生きていけるのだ。邪魔をしないでください。私はこのときが来るのを、十年も待っていたのです」
 王子は、尋ねた。
「十年も待った? 十年間、きみは、何も食べなかったというのだね。動くこともできずに、ここに留まっていたというのだね。それまでは、ただ、細々とした養分でやっていたというわけか。そして、いま、はじめての虫を手に入れたというのだね。どんな気分だろうか」
 食虫植物は、その言葉に気を良くして、自慢話を始めた。
「最高だ。ずっといろいろなことが私の身に起こってきた。だが、こんなことは未曾有だ。見れば分かるとおり、私は今まで嫌われ続けてきました。食虫植物は、みんなそうなのです。誰も彼も嫌われる。そして、同類通しで労わりあうこともしません。私には妻も子供もいません。ただ、ずっと、私の所にやってきた間抜けな一匹の虫を食べるだけのために、待ち続けてきたのです。実際、間抜けではありませんか。そう思いませんか。そして、その間抜けな虫を手に入れた私は、これで、妻や子供を手に入れる算段をつけることができるのです。虫どもに聴いて御覧なさい、嫌らしい匂い、豪華な花、だがそれは惨めな、相手にされないもてなしに過ぎんのです。堕落していると言われます。その私が、ついに、今日一匹の虫を手に入れた。ざまあみろ。私を嫌い抜いてきた奴らのうちの一匹をまんまと引っ掛けたというわけだ」
 王子は、尋ねた。
「寂しくはないの」
「そりゃあ、今までは、そうです。だが、今から、妻を見つけて、子供を作る。私は、それだけのことをやり遂げたのだ。無論、ただ待っていただけだ、という奴もいるだろう。だが、問題になるものか。確かに、小さな虫さ。でも、私は、それこそずっと欲しかったものなのだ、たまらなかったのだ。でも、こんなにうれしいときに、あなたがいて、良かった。虫たちにこんな話をしても、まったく、無駄です。誰かに表現できるというのは、植物でもうれしいことです」
「ところで、ぼくは、あっちの方から来たのだ。どうすれば、この高地を抜けられるかね。分かる?」
「ああ、」
 王子は、その言葉どおり、道を進んだ。そこに、一匹の蜘蛛が近付いてきた。
「蜘蛛よ、こんにちは」
 蜘蛛は、怒気をたたえた声で、王子の挨拶に答えた。
「こっちに食虫植物はいなかったかね」
「いたよ。向こうにいた。虫を捕まえたのだ」
「何? 虫を捕まえた? そんな草のことは訊いておらん。まだ、捕まえていない奴のことを言え。おれは、その袋の中に入ってきた虫を横取りするのだ」
 王子は疑問に思って、次のように尋ねた。
「なぜ、おじさんは、食虫植物と違って、自由に動けるのに、わざわざ、人のものを奪おうとするのかね。第一、食虫植物の中に入って待ち伏せするよりも、そちらのほうが、効率もいいし、害もないと思うのだが」
「そんな理由は知らん。ひとつには、むろん、楽をしたいに決まっている。食虫植物は孤独だ。嫌われ者だ。だが、おれ達に楽をさせてくれるのは、奴しかおらん。あるいは、単に一つの遊びなのかもしれん。おれの力では、ここら辺の虫なら、簡単に捕まえられる。だが、たまには、食虫植物のところに奇跡的に入ってくる虫を奪おうとすることも又、いいだろうが。そして、そのおこぼれを、少しだけ、食虫植物にも分けてやり、かえって感謝までされるわけだ。それで、二重に楽しめる」
 そして、蜘蛛は、笑いながら去っていった。その蜘蛛が一つの小さな花をつぶしていったので、王子はその芥子粒のように見えにくい小さな花を直した。するとその花が、つぼみのままで話し始めた。
「ありがとう。私は、アナという花よ。一年に二回しか咲けない。でも、あなたのためには、咲いてあげてもいいわね」
 王子は、その話を聞いて止めようとしたのだが、その花は咲いてしまった。咲いてしまうと、感想を求めるように身をくねらせているので、眼を凝らして観察した王子は、美しいというよりもかわいい花だと思ったので、そう言った。
「だが、何で、咲いたりしたのだ。もう、後一回しか咲くことができなくなってしまったではないか」
「いいえ、花は、人間みたいには出し惜しみをしないもの。無理やりしなくても、自然に咲くわけ」
「食虫植物といい、花といい、植物はとても待つことがうまいものだな」
「弱いものは待つことしかできないというのが、あるでしょう? それで、上手になっていくのだわ。でも、私の前で、二度と食虫植物の話なぞしてくれないでね。誇りが違うのよ」
 王子は、尋ねる。
「誇り。植物の誇りとはなんだろうか」
「何か一時、大事なときに待ちに待って、その大事な瞬間に惜しみなく与えてしまって、もしも失敗しても何も思わずに、次の時のために長い時間を又待つこと」
「でもそれは、食虫花も同じではないかな」
「違うわ! 待つものが違うもの。私たちのは愛すべきものであり、食虫花は傷つけるものなんだな」
「でも、それは、彼の役割じゃない?」
「いっそ、あいつら、死んじまえ」
 その花は、そう言って、王子に微笑を送った。それからも、王子が歩いていると、さまざまな虚弱なものに出くわすのだった。この高地の生き物は、何から何まで儚く弱弱しいのであった。一匹の虫が、土を食べていた。王子は尋ねた。
「なぜ、土を食うのだ」
「ここには、非常に、物質が少ないのだ。命の総量も、個体それぞれへの割り当ても、ここではあまりに少ないのだ。あなたが、ここに永住する決心をしてくれれば、良いのだが。この広い土地のすべてをかき集めて、やっとで、あなたを半分作れるか、というところだ。皆細々と生きている」
 王子は、ひとつ思って、こう言った。
「とするとだよ、どこか遠くの地から、偶然、虫がこの地に飛んでやってくるとしよう。それは、この地を十分に堪能してから飛び去っていき、この地の飢餓感をより深めるかもしれない。とすると、きっと、食虫花は外から来る虫を土地に取り込んでいるすばらしい存在に思えてこないかね。どんな他の植物も、奪われていくだけに過ぎないのだからね」
 すると、その虫は、王子を変な目で見て、「あんなは、変な考え方をするんだな」と言った。王子は、導かれた方角へとさらに歩き、そして再び、別の食虫花にあいまみえた。食虫花が気に入ってきていたので、話しかけようとすると、その花は枯れかける寸前であり、みるみるうちにしぼんでいき、そこにぽっかりと空洞が開くと、隣からせまってきたスミレが、「やっとで死んだ」とため息し、その空洞を埋めたのだった。

ある電話での会話

「もしもし、おれだ。長くなるのだが、話をしてくれ。いったいどうした、とかいうのは一切抜きでお願いしよう。ひどく身体が熱いのだ。三日も前から。なにをやってもさめない。食欲もないし、吐いてしまった。一切眠れやしない。また性欲の一切もない。なにも変な電話ではないのだ。ただあまりにも心臓の辺りが熱い。どうもおれはいまうわごとをしゃべっているね? うん、よしとしよう! ああ、虎の腹のように熱い。いったいどうしちまった?」
「……わたし、行ったほうがいいのかな?」
「いやいや、勘弁…ちがった…このままにしてくれ。どうか。おまえが電話を切った瞬間に手首を切りそうだから、どうかお願いだから、その受話器をとりわけ放さないようにぐっと持って欲しい。このまえみたいには絶対にならないから! そうなりたくないだろう? じゃあ、このままでいて、ただただ、話を聞くだけにとどめるように、な、協力するというかなんというか。ああ、きっと前のときも今みたいに異常に熱かったにちげえねえぜ、おい。…血がね…どうもこの血の野郎が騒ぐときてる。なんというかな、血がね、いや、おれがね、おれではなくて、血がおれ自身で? それできっと血の野郎は身体の野郎を無性に出たがるんだな。どうも下品な話題に直行しそうだな。そんなのが好きだったっけ? あっは、おれも知らねえよ、小さな豚くん。いま豚くんは寝る前かな? それで、動物的パジャマときてる? まるで見えるようだよ、あっは。いちど月に行かなくちゃな。そんな顔してるよ、あんた! だれか信頼できそうな人に連れて行ってもらうといいかもな。ああ、電話を切ったら、手首を切るといったろう? くそみたいな熱さ! まあ、おれのことは気にすんな、、ってこんな電話したら気になって当然だったりしてな。いや、そこを我慢して気にしないようにするとか何とかいってよ? 腹の野郎がまだもめてやがる。訳分からんな。うん、よし! でもけっしてあまりにも熱いから切るってなもんではない。あと何回いったら分かるかな? いや、まだ言ってないか」
「まさか、ナイフ持っているのじゃない? ちょっとまって、いまから行くから。誰かも連れてくるから」
「だだだ、だめだって! 切ったら切ると百万遍言ったって! ナイフはない。そんなものもってたら電話する前にやっているに違いない。証拠として叩くよ。でも叩いたって何の証拠にもならんな。どうも証明不可能だ。そもそも、まあ、いうなれば、切っては駄目だな。あっは、二重の意味において切っては駄目ということだな。そんなにあわてたらつられてこっちも慌てて切っちまうって。迷惑かけてすまんな。そもそもおれが切るべきなのかもしれんが、そうしたらもっと訳分からんな。さあ、よしとしよう。まあ、よくは分からんが、分からないなりに、結局おしゃべりしなくちゃな。でなきゃ、最近は本当に死んでしまうかもしれん。まあ、訳分からんが。迷惑には違いないが、そもそも、ちょっ、いや、いまは何も持ってない。拳銃はとられちまったし、ナイフにいたっては、…まあ持ってない。舌はかめない。そもそも死の馬鹿らしさ、おまえとわたしときみとかれの違いなみに馬鹿らしい。ただ無性にほてっているんだな。そこで心底冷え切った冷却材のごときものを必要としているんだな。…でもそれは自殺じゃないぜ。二回もやりゃだれだって卒業するって。迷惑だったら是非、いや、むしろ切ってくれ。あまり話すこともないのかもしれん。あったかな? 苦手ならおれから切るよ。決断力の訓練はまず電話を切ることから始めなくちゃな。まあ、そもそもの話、おれが死ねるわけないよなあ」
「いま、わたしがそっちに行って、ゆっくり話すということも出来るのよ」
「うん! それが出来たらなんと素晴らしいことだろう! ちょっ、くそが! いや、まったく急いでいるわけではないのだが、急いでいるような、そうでないような。むしろ来るな。来たら死んでやる。死体のプレゼント、なんか前もこんな風なこといったような気がするが? まあ、冗談の類だな。もう一度言ったほうがいいかな? そうでもないか。もう、なにもかもが分からん。むしろ分かったら死んでやる!ってな気分かもしれん。ともかく、あとわずかしかない。いや、間違った! ちょっとした占いをしていてね、ハートのクローバーときた、微小なる仏滅の意味だな、すべてはマーヤってことでよ、おい。違った! マントラだっけ? 特に電話ではそうなんだな。ちょっといいかな。ゴソゴソ。いまなにを持っているか分かるかな? それをたくさんの人にあげようと思ってね。何をって? どうせ、おまえにもやるんだから、どうでもいいだろう? そのなかでいいやつを選んでやってやるよ。おお! 忘れてた。もう、最近、一ヶ月ぐらい会ってなかったな、そちらのほうはどうかな?」
「別に。まあまあ。取り立てて何もなし。あっても多分知ってる。一週間どこいたの?」
「うんうん、まあまあか! 絶妙に幸せってところだな、おい。だがね、核爆弾に対する常なる備えをしておかなくちゃな。パアになったらやりきれないって。どう思う? そういえば、おれの親友はどうしてるんだ? 今日は? いない? くそみたいなもんだな。そう伝えておいてくれ。あいつは親友だけど、あいつのことを何一つとして知らないよ。くそみたいなもんだな。ありとあらゆるあまねく事物はくそみたいなものだという気がしているくらいだ。でもどうでもいいな。還元主義を習ったっておれができる応用とはこれぐらいだというのは滑稽だな。ヘラクレイトスの卒論は無意味だったようだ。おおお、今すぐ、逃げなくちゃ。よし、逃げようか。」
「まあまあよ、あいつも。それにあんたと逃げるなんてキモうんざり。質問に答えないし。どうでもいいし。はっきり言って何もかもどうでもいいし。そうやって、ずっと一人でやっていけばいいんじゃない? それこそ、くそというもんだ。あんたほどみんなの死ぬほどの心配を無効化するのがうまいやつはいない。一回ぐらいあいつと顔をあわせるべきだね。そうやって避ける気持ちも分からないでもないけど。それも分からないけれど。それで結局、用件を要約するとどのようになるんでしょうか?」
「よし、来た! シエラザード姫様! 違った、逆だったな。おれがそいつだった! さて、さて、この話はひょんなことでおれの自分の頭に飛び込んできた思想というやつの話なのだが、真理の野郎は代償を払わないと得られん、といったようなそんな話なのだな。なんで、そんな話をする羽目になっているかというと、そんな羽目をおまえが作ったからに違いないな。おれには用件なんかなかったんだからな。とすると、なんで話してやがるんだ、おれの野郎はよ? ともかくもよ、この熱さよ、これが生じて以来まったくのところ、発狂しちまった。そんなことで頭が一杯なんだからよ。こんな電話でひょっこり現れるくらいだ、参るな。ともかく、あいつに話すと分かるかもしれないな。話すから、話してくれないか? ひょっとすると用件というのはそれだったのかもしれないわけでもないような、まあ訳分からんな。とりあえず代償だ。そこんところをきっちりと理解してもらわなくちゃな。真理というのはある種の知識に違いないわな。だが、むろん、二次方程式の解のようなやつとは違うぜ、分かってる? そんなもので傷つくやつはいない。それには何の代償もないからな。おれの言いたいのは、真理というある種の知識だな、このさい感覚といっちまおう、真理であると思われるような感覚をだな、誰かが知る、そのときに代償があるという話だな。というのもな、真理の感覚の野郎は不意に訪れる、だが常に言葉には出来ないんだな。それなのに、それが言葉にされる前から真理という事が分かっちまうわけであって、そこが真理の野郎の偉いところなんだな。しかもその野郎が訪れたとするよ、おれやおまえにだぜ、急に普通に生きてるおれらによ? するとどうだ、何もかもが無意味になっちまった! 昇進したかった、だけどそれもどうでも良くなる。もう少しでローンが終わる、それもまたどうでも良くなっちまった。また、異性関係やとてつもないアイデアや休暇や家族や、まあ、価値があるような何かがだ、どうでもよくなると来る! それも、言葉にもなってない、なると決まっているわけでもない、訳も分からず飛び込んできたそいつのためにだよ? まだ、そいつは単なる感覚に過ぎないのにだぜ! 笑うよまったく、あっは。真理の感覚の野郎はだよ、それ以外のおれらの持ち物に嫉妬するんだな、それにおれらもやつに夢中になる、そこでそれ以外見えなくなってしまって、どうでも良くなると来てるんだな。むしろ、マーヤとなり、消えうせてしまうようなもんだ。さて、こんなことで頭が一杯になっている自分なのだがね、この『来たり!』というのはどこかの本で読んだに違いないね。そうそう、この思想は『来たり!』と言うんだな。おそらくそのような『来たり!』が起こった人々についてまとめた本かなんかだったんだろうな。ガリレイとか聖書の蛇とかが出てくるような本。おれさ、そいつらのことで最近頭が一杯になっちゃってね、そいつらの思いがなんともはや曰くいいがたいっちゅうか… それでな、『本当のこと』という章もあるんだな。そこには一人の男の経験がのっているんだけど、これは夢かなんかで見たのかな… 分からん、おれにはさっぱり分からん。とにかく『来たり!』にでてくるような野郎はみな真理を知ることによってかなりの被害をこうむっているな。また、みながみな不幸であって、生前の成功など皆無、さらにわずかに言葉になったその感覚の断片でさえ、奇跡的に伝えられるのみに過ぎない訳。さらにその断片でも少なく共に三十年先に行ってようやく十全な理解が得られるといった按配なんだな。その『本当の事』の男、これは狂気だ。さらに真理までいまだに誤解され続けているよ」
「ちょっとまって! そのうぬぼれた男はあんたなんでしょう? だってあんたの話じゃいつもそうだもん。さらにまともな引用が出たためし無し。聞いたから知ってるんだから。すべての引用が創作。ほんとに大学でたのかな? 訳わからん本のごったまぜもいいところ。混沌の混沌の混沌。まあ、いいや。続けて」
「これもまたいわば誤解というやつかもしれないな。だが、あるいはそうかもしれん。覚えていないにしろ、典拠があったとしても、結局それで頭が一杯になっているうちにおれのほうから誤解するということもありうるかもしれんからな。まあ、だが、この男は『思索的』な男でな、まあ大学もまともに吸収できなかったおれとは違うわな。彼は『来たり!』の原理自体を探そうとした男、だからね、『来たり!』を意識的に捕まえようとした男なんだな。いわばファウストみたいなもんかな? ファウスト知ってる? その男はね、まずその『来たり!』の結果であるところのマーヤをだね、まず実現しようとした。つまりなにもかもを否定したんだな。そのあとに真理の光が現れるだろうと考えたわけだ。方法的懐疑というやつかもしれんな。デカルト知ってる? ところで、そいつの前に現れたのは悪魔ではなかったし、おのれでも、神でもなかった。全否定したからといってすぐに悪魔が現れると考えては早急に過ぎるな。だがそんなことは考えもしなかったかな、どうでもいいか。まあ、少し違ったのかもしれないな。それでもその男は少なくとも意識的にやっていたわけには違いないから、何かを期待していたことは事実だな。期待がある以上は期待通りのことが彼の身に起こった。期待を捨ててなかったという事が問題になるだろうが、まあ、ここは無視してな、何かが起こった。ここは、核心でもあるな、つまり人は皆自分が望むとおり選んだとおりの生活をしているということだ。生まれとか不運とかを考慮しても絶対的にだ。特に性格的にね。何、分かんない? じゃあ、はしょろう。それは仮定しておいて、世の中はね、そう考えていけば、自分の望みどおりにそれに応じてゆがんで見えてくるということだ。そう考えればこの男の見たものもまた幻だったような気がしてきたな」
「つまり、その希望の幻とやらについてとうとうと語るわけ? 宗教がかりながら?」
「宗教は違う! それはとんと外れてるな。信仰ではなくて理解とか実感だ。たしかにめったにないような不思議なそれではあるのだろうけれど、ただ不思議なだけで宗教といってしまったらどうしようもなくわかんないな。しかしこの説話『本当の事』はそのことについてはこういっていたように思えるな。人は皆それぞれ誰にも一生言わずじまいになってしまう決定的な秘密がひとつはあるわけだ。それがもしも言われるのであれば、おそらく決定的な時刻に決定的な場所で決定的な人に向かって言われるには違いないね。そこでこそ、この男の話は考えなくちゃあいけないな。そこは念を押して伝えてくれ」
「耳たこなほどにね。それで結局何ナノ? その見たものは?」
「すっかり忘れてしまったな。そこまできてるんだけれど、思い出せない。なにやら病理学的な夢のようなものだったような気はするな。ただ精神分析のような夢とは違う。解釈を通じて見えるような夢ではないことは確かだな。ああ、熱い。いらいらする。ところでな、おれは最近ね、夢と現実を自由に行き来できる瞬間を持った事があるよ。ああ、狂ったほうがましだ。ほんとうはこいつはおれなんじゃないか? かなり美化されているものの。だがどうでもいい。知らんしな。お願いだからあいつにいってくれよ。どうでもいいことだが。そういえば、はじめからなんも用事はなかったんだったな」
「十分おかしくなっているような気はするけれども」
「おそらくね、ああ、たまらない。ともかくも個人のいのちなんて実にくだらない。迷惑かけたな。くそみたいなはなしだ。暴れたくて仕方ない。この…受話器。くそみたいに語ったな。ともかくもよろしくだ。そのうちに会うんじゃないかな。いろいろあったあとにさ」

旅をする娘が縁側にてぼくに語った話

 月しか出ていない暗い夜空の下、だだっ広い青く光る地平線まで見える野原を向きながら、ひとりぼっちのあたしは、木下の幹と根のところにうずくまりってぼぉっとしていた。その時は。明日のことも、昨日のことさえも考えずに、考えつくままの旅の唄を口ずさみながら―――

 けっして、拾って育ててくれたおじいさんを捨てたわけじゃない。また、けっして、あたしは、都会が嫌いだったわけじゃない。過去のことなんて話すほどのいっちょうまえの誇りなんて、全然ないのだけれど、けっこう、つらかった嫌な人たちとの生活も意外に慰めになるほど、さみしがりやなんだ、あたしは。
 また、ナルシズムに冒された自分勝手な人たちに、不愉快な目にも合わされてきたけれど、時には、自分のことだけを思って泣いた、――これは仕方ないのかな――、いやいやいけない、これはいけない。そのせいであたしは、童話の中に出てくるような、自然と動物たちとのゆかいなたわむれができないんだ、きっとそうだ。いまのあたしに寄って来るのは、巣を壊されたくもの子供か、リーダーを蹴落とされた弱弱しい老猿だけ、でもそれでもけっこう気休めにはなるんだ。もちろん、あたしを傷つけるのはそんな人たちだけれど、時々、死について考えさせてくれるのだから、少しは感謝してる。一度なんか、一握りのビスケットをあげたくらい―――

 あたしはいっそ、木とか花とかと話ができる空想家に生まれたかった。いつも非常なばかりの世の中だけれど、このことばかりは非常すぎだと思った。でもあたしたちは理想を求めないといけないんだ。そう、あたしたちはずっと、地平線の見えるところまで理想を求めないといけないんだ、こんなことがふと思いついたけど、少し面白くない?――

 あたしはいつも姉さんみたいと言われつづけてきた、こんなにおどおどして、怖がりなのに。でもあたしが今、逃げて逃げて、誰もいないところに逃げてもやっぱり、姉さんはいなくなったみたいってみんなはうわさするんだ、きっと。時々、人が恐ろしくめくらに見えるときがあるけれど、きっと自分もめくらなのだから、見えるっていうのは少し面白くない? たぶんあたしはお母さんみたくしていたのに、やっぱり、人は、お姉さんと言うんだ。
 あたしは何も任されないし、何にも手をつけてはいけないことになっていた、――これもあたしが夢遊病に罹った一原因なのかな――、ぜんぜん分かんない。でも、そんなことは考えてもいけないことなのだから、また、嘘をついて、恥をかいてしまった。もうどうしようもない娘だ、あたしは。
 でもいくら街を乞食や怖い派手好きの若者たちと一緒にうろつきまわったって、けっきょく、一時的に終わる、むなしいことをやって、ここもやはり街だった、と気付くのが早かっただけでもあたしは威張っていいんじゃない?、それだけのことはやったよね、――いや分かんない――、結局生まれが間違っていると気付いたら、それで終わりなんだ、くじらみたいに――

 とてもきれいな晩に、今日の夜はきれいさっぱりに昼に変わった日があって、すごくまぶしいから、またうろから立ち上がって、明るい間じゅう、道を歩き続けた。そう、せめて明るい間だけでも歩き続けないと、また、暗い考えでも起こって、その底にあるものすべてが、太陽の白にさらされたら、もうそれは大変なことだから、いつかは必要なことだけれど、ずっと延ばしていいいつかなら、延ばしていたほうがいいから、あたしはせめて昼だけでも歩き続けることにしたんだ。それに、歩くというのは進むということだし、進む、というのは周りの自然のことを考えずにはいられないことだから、けっこう疲れるし、汗はかくけれど、単にそれだけだから、満ち足りているから、うきうきとはしているんだ。きっと、誰も見ていないところで、ひとりで何か秘密めいた気のきいたことをするというのも、あたしにとっては、すこしは面白いのかもしれない。でも、少し最近、元気になりすぎて、馬鹿なことを言い過ぎてしまった。どうして、言葉には言い過ぎっていうのがあるということは、すごく怖いこと、もう誰もいないという事実を見せ付けることにしたって、これも言いすぎみたくて、とても悲しくなったので、昼間なのに立ち止まって道の横に座り込んだ。その瞬間も太陽はいやというほど照っていて、気が滅入った。そういう、何も考えを許さない、押し付けがましいものから、あたしは逃げられない、だだっ広いとことにいた。ちょっと一息入れて――

 あたしはぐったりなって気違いみたいにしゃがみこんでいた。足を抱くと言うのは、お母さんみたいで、すごくあたたかなことで、これはもう、ひたすらひたすら、土を見たり、ぼぉっとして、じっとしているしかない、それが一生続くのなら、なけなしの誇りでさえ犠牲にしてでも、それを拒むのだけれど、もしそうでないことが前もって分かっていて、いつか終わるというのが分かっているのなら、反対になけなしの誇りを払ってでも、それを受け入れるのだけれど、どっちか分からないのだから―― 誇りが捨てるに値する金貨だと教えてくれたのは世間だけれど、妙な執着心からか、いやらしく、手放す事が難しいのだけれど。とにかく、いつまでこの恐ろしく大きな太陽は照っているのだろう、たぶん、夜はもう来ないのかもしれない、と思っていたことは事実なのだけど、でも夜は来た。あっ、変わった、それくらい劇的な変化だった――

喋る窓のシワネ


 巷にあふれる人為的な非生物どもよ! お前らはかくも大量にかくもありふれかくもごったがえすが、いったい精神をひとつも持たぬのか?
 だれの問いだ? だれが呼びかける? おまえらなんかに。


 日本列島をひとっ飛び! 山々の風を望み、海に囲まれた島々を望むとある精神体は人間の存在に気付かない。細胞の集まりに過ぎない人間に……


 ……四国……山間の小さな都市……或る精神が目覚め……辺りを見回す。
 いや、まだ生物ではない。刺激と反応という因果機能の通常の物体の約1000倍ぐらいに高まった弾性体にすぎない。普通、あらゆる物質は、その量子力学的法則にしたがってあらゆる存在と確率的な一体性を育んでいる。この弾性体、人間が言う窓ガラスは、その一体性の中で、或る種の負のエントロピー的な交流作用の舞台となったと言えば通りがよかろう。あらゆる生物には生まれつき備わった交流作用だ。そのあまりにもわずかな作用が次第に或る強靭な法則を通じて高まり、その高まりと共に、必然的に取り込まれた或る情報群の、この場合は弾性の振動の中には、人間の声も混じっていた。もちろん、それが主たるものでないことは言うまでもないが、物語の体裁としては省いてしまおう。
 因果作用の高まりの中にはもちろん正の強化がなくてはよもや意識が目覚めるということはありえなかった。そしてもしそれがあれば必然的にその正の強化から意識の性質が決まってしまうだろう。この場合の正の強化は様々な周期的な空気の振動の中に求められるのだが、そこにもはやり人間の声があった。とすると目覚めるのは人間の意識にかなり似通った何かであろうか?…… なんにせよ、単純に言えば、結局人間たるもの、あらゆる意識作用を自分の意識の類似物としてしか見られぬのだ。無意識的部分などなんのことがあろう……
 いまだ生物ではない何かがその空気の振動を通じて生まれ、それが周期的な正の強化を持つ情報体により構成され始め、小さな音でコトリと音がする。背中を振り向くと小さな赤ん坊がいて、われわれに微笑みかけている。
「あたちはあたらちぃいのちです」
 その構成体は、或る種の依存的な関係を外界と育み始め、刺激と反応というようやくわれわれに理解されえる因果関係を営み始める……
 風に複雑な言葉を返しては家の者をいらだたせ、小さな石ころが当たると思いもよらない周波数で震える。命というものが何にせよ、それがひどく脆いものでひどく危ういバランスの元に立っており、それなのにひやひやもののわれわれをからかうように育ちゆく何者かをどうしてわれわれが命と呼んで悪いことがあるだろうか?…… ここに新しいわれわれの仲間が生まれ出でた! われわれは何かを大切に他のものと区分けしたいときには名前をつけるものだが、これにも名前を付けようではないか。シワネだ。シワネと名づけよう! おめでとう! 歓迎されざる命よ?!


 ありとあらゆる建物に囲まれた或る三階建てのマンション。その二階。すでにもう幾時かが流れ、自転車に乗る者がその慣性の使い方を覚えるようにわずかな空気の振動に震え返すことを覚えたギザギザ窓のシワネは、寒い冬の風の高まりを利用して、次のように震えた。
「……が……なんであたしcは窓のくせに御丁寧に不透明に作ら…れ…てやがるの?…ちきしょうめ!……」
 しかし、困難な人格形成を経た彼女は非常に小心者となっており、こう思い直すことにした。
「……いいや……いっていいぃことわるいぃこと……ある……あたし、いわんかったことにするわ……製造業者ばんざい……いのり?……おにばば」
 そのとき、この家の住民は換気のためにこの窓を開けた。くそうるさい窓とひどい冷たい風に毒づきながら。
 この窓を開けるということがシワネに及ぼした作用とは……歓喜! さらには罪と痛み! 擬似的な死の快楽!
 彼女はこの自分の移動、すなわち窓の開け閉めのことを自分の本能だと思っていた。人のことは知っていたが、自分の一部だと思っていた。馬鹿で言うことを聞かぬ不自由なあたしの一部だと思っていた。彼女は自分の中に入る光を分析することにより、人間には分からない精密な論理体系を作り上げていたが、人間に分からない仕組みの論理体系でも人間と似たような結論を出すことがあるものだ。彼女にとっての生活領域とはその弾性体の内部であり、そとのものは「どうしようもない未知」と「くだらない馬鹿者たち」とに分けられている。彼女はそのどうしようもない世界を見つけ、いくつかの自分似の形を見つけ、それに親しみ、その類似ゆえに、深い共感と宗教的神秘感を得、時々風の強い日に、自分以外の窓が揺れてバタバタと音を立てると、彼女の胸(?)に何か突き上げられるような絶頂を味あう。それなのに彼女が最も苦悩を覚えるのはその窓とあたし(『彼女』)の違い、あたしは透明でないのにあいつは透明であるということだ。
 光についての透過性について彼女は悩む。もちろん、そのとき彼女は環境との一体性を失い、あがき、刺激と反応が狂い、ひとり! ただひとり! と嘆くわけだ。彼女は交流を知っていたか? 知っていた! それは彼女がまだ生命でないときにすでに知っていたのだ。いや、なる微妙な瞬間に「永遠の古代へとさかのぼって」知ったというべきか。
 彼女は晴れの日に人に開けられないと自分は病気なのではないかと思う。……光……温度による膨張……弾性的性質による振動……人には計り知れないであろう何かの感覚……それが彼女のすべてであった。雨の日に閉じられないと再び彼女は病気だと思う。なぜなら、すべて彼女の意思で開けたり閉じたりなされるものと彼女は信じていたからだ。彼女にとって人間とは遠い遠い感覚の違う相手であったので、彼らと交流ができるのではないかということは想像もよらない。むしろ人間は彼女の一部でもあったし、彼女と類似点もない。彼女にとってそれは物体か何か。それは食べ物であり、空気でもあり、本でもあり、そんなものの価値を越えることはない。彼女にとっての陶酔的震えの相手といえば、やはり他の窓であった。類似は仲間であると彼女はどこで知ったのかは空気の振動が大きかったであろう。つまり、大抵は外見ではなかったのだ。しかし、光もまた無視できないが。
 ということで、まるで彼女は人間のごとく他の窓を愛することにもなろう。彼女が最も陶酔よろしくした相手は透明窓のガタガタだったといえる。むろん彼女がどのように名をつけたのかはわれわれには表現する由がない。それは彼らの光学的言語の問題だからだ。しかし、彼女は光と音は捉えることができたものの、人間については、本当は、理解していたのだと筆者は信じたい。それは無意識的・部分的・表面的であったにしろだ。彼らの声をどことなく感じることによって彼女が彼女自身の言語を構成したのは上述したとおりであるし、自分の言葉だけでなくその他の概念まで知っていたとするのなら、彼らの交流を見て、シワネが自分の深く求める何か交流としか呼び得ないものを理解したことは想像に難くない。しかし、それが学習的利益と関係していたとは言わない。学習による正の強化ではない。それは生命のすべてが求める深い衝動であるとしか筆者には言い得ない。風が吹く。自分がシーシーと軋む。すると人は或る種の反応を返す。これは彼女にもおぼろげには分かる。もちろん、それは交流の一種であろう。しかしさきにいうたように人は彼女の一部分なのである。人が反応しないということはそこでむしろおかしくなるのである。ひとつ彼女のためにどうしても言っておかなくてはならないことは、彼女の空気の振動による空間感覚はどうみても人間の遥か上を行っており、そのように考えてみれば、人間どころか他の何かはむしろ自分たちの中に棲む動物か何かと思えたということである。
 風が吹き、シワネは軋み、風が吹き、再び軋む。強い風が吹く。おお、人間共よ、聞け、あたしのために働け。なぜおまえたちはこんなにも不器用なのか。こんなにもわからないのだろうか。なぜいつも決定的なものを見逃し、最も重要なことを理解しないのか。聞け!
 そのとき、シワネの感覚の閾値のはざまにさっと人間が入り込む。
 その男、家父はそのとき聞いた。どこからともなく聞こえてくるひとつの声を。今日はひどく風が強い。いつもいつもこの調子だよ。しかしこの声は一体なんだ?
「……あ?……あけてぇ?……」
 男は身を震わせる。こっちの方を見る。もう一度聞こえ、もう一度びくっと震えて、こっちの方を見る。
「……ああああ……あけてよ?……お・・・お……おねがいだから……」
「いったいなんだよ、台風のせいかよ? まったくはっきょうもいいところだ」
 男は自分を馬鹿らしく思う。窓が自分を開けてと言う。まったくキチガイな偶然もいいところだ。「ちきしょうめ!」
 くそったれがと言って、窓を蹴る。シワネにはそれが強烈な快感となって走る!
「……ごしょう!……かんにんな?……かんに……」
 くそったれば。みんなを連れてきてみてやるよ? 男は家族を呼ぶ。たくさんになって戻ってくる。空気が薄くなる。
「まったくのはなしよお。おもしれぇ、こいつはよお。よく聞いとけよ?」
 くそみたいな親父だよこいつはよ、と一人娘は思う。自分の口で言うんじゃないの? 言った瞬間その詐欺師の尻をけりとばかしてやるよ? そのとき! 声がする。「うぅーん?……ゆる……ゆみ……ゆみ?……こんにちーわ!……みなさんどう……あ?……どうして?……」
 娘は父の尻をおもくそ蹴り上げる。
「ほら! やっぱりおまえじゃんかよ?!」
 父は娘をにらむ。父にはもう何がなんだか分からない。「違うが! くそったれが! ちくしょうやろうだよ! おれの娘というやろうはよ?」
 おじいちゃんが言う。「わしは聞こえたよ。まるで人の声だった」
「だから、それはこのくそやろうの声だったって言ってるでしょ?」
「おれじゃないって。よく聞けよ? 本当に人みたいに聞こえるぞ……ほら……今だ! 今だ! よく聞いてみろよ?…… 聞こえるだろ? さっきは開けろっちゅう言葉だったってよ? 今度はおかしなことにおまえの名前だぜよ、おい? ほら!」
 娘はくだらないと思って部屋を出てゆく。父は夢中になっていたのが冷めてくる。なぜならこれは娘に聞いて欲しかったからだ。だからおじいちゃんがこう言ったのを聞いてもくだらないと思って部屋を出て行った。
「いや、わしにはちゃんときこえた。これは驚きだ。本当にきこえた。おまえのはうそじゃなかったぞ」
 シワネは愉快になった。言葉と言葉のやり取りが迫ってきたからだ。ということで彼女にとってはくだらないことだが、ねこが毛づくろいをするノリでけっきょくひとり残った老人にこう言う。
「にゃ……にゃにお……おどろいて……台風?……うぅーん?」
 驚く様が見たかったものだが、今度は返事が得られず、シワネは内側に引っ込んだ。というのも老人は感嘆しきっていて窓の響きに聞き入っていたからだ。
 シワネはこのようにして言葉の意味と出会った。むろん会話を覚えたわけではない。言葉というものが単に空気の震え以上のものであることを知ったのだった。


 彼女、シワネは、自分の振動の波を放つことに興味を覚え始める。
 彼女が興味を持ったのは、つまり、他の窓に語りかけることである。人の言葉として話しかけるという意味ではない。振動を伝えるということである。むろんそんなことはできようもないと思われるだろうが、けっきょくのところ彼女は他の窓からの振動と自分の振動の情報の統合的な解析をしたと言えば通じがよかろうか。彼女が話すというのは彼女が下腹部の筋肉を持っているとか絡み合う舌があるとかそういったことではない。振動を受け取って返す必然的な波が覚えている以前の振動の形をとる、というのが彼女にとって話すということであるからには、けっきょくその構造だけなら普通の窓となんら変わることはないのである。
 したがって興味とか話すとかいう言葉を使うと誤解がありそうだが、よくよく考えてみるとそれ以外の何ものでもないのである。けっきょく或る選択があり、その選択に意志のようなものが感じ取れる。それが、シワネが或る種の生物である、と筆者が言うときに意味する意味なのである。彼女が他の窓に執着したという言い方も同様に考えなくてはいけない。彼女が感じ取れるのは振動するものが他にもあるということだけで、それと光のいくつかの構造上の類似があるということが、或る種の不思議な構造を彼女の中で構成しているということなのだ。しかし、そのことを考えてみるとやはり、シワネが他の窓に執着しているという言い方も全く不可能であるとは言い切れなくなるのである。だから彼女によって透明窓のガタガタが特別な意味を持つというのもそういった意味であり、そこには理由とか動機とかガタガタが持つ何かがあるとかそんなことは全くないのであり、彼女の中に不思議なそのような感覚を、あるいはかき乱しを感じさせる振動構造がある、と言うことなのである。けっきょくのところ窓が意識を持つようになったということがあったとしても、そのことについて理解できるかと言うとわれわれにとって他人が理解できるかという質問よりももっと高度な質問だということができ、少なくともわれわれよりもガラスについて詳しい物理学者あるいは工学者にとってもその事情は変わることはあるまいと思われる。
 シワネはガタガタのことを愛しているというのは完全にそういう意味で考えてみなければならないし、そこには人間の愛と類似する点は或る思いであるという以外にはまったくないであろうし、またあるいは人間の愛といってもわれわれは他人の愛については全く分からないのは先と同じである。


 シワネがガタガタと交流した、それがうまくなった、ということは言葉を交わしたということでもないし、シワネがガタガタに何か働きかけたということではないということは伝わったであろうか。しかし、シワネ自身がもし人間と同じ意味で話せるとするならば、むろんそれは無理な願いでも想像でもあるのだが、まさにシワネはガタガタにそれこそしばしば切実に愛しみを、悲しみを、孤独を、ありとあらゆる存在者が持つ何かちっぽけなものを働きかけたのである。その意味は人間のいうような意味での物質の交換であるとか意味の交換であるとかではなく、シワネの光学的構造の単なる物理的な変化の中での何かの変化なのである。それは確かに交流であった。彼女は振動する。それはその交流の結果としてひとり震えるのである。悲しみの発露である。なぜなら振動にはシワネが持つような意味はないわけで、ガタガタは、こう名前をつけるといかにも人間のようではあるが、やはりただの窓に過ぎない。恐ろしい悲しみであったが、シワネもまたただの窓であり、何の特別な内臓を持っているわけでもなかったが、自意識を持つ唯一の窓であることが自分で分かりかけてきた。
 彼女の世界というものは恐ろしい広がりを持つものだが、しかしやはり狭い世界なのだから、唯一の窓だという悲しみは分かるだろう。シワネはともかくに人間には分からない意味でガタガタと交流し、人間には分からない意味でガタガタに自意識がないことを知り、人間の心に再現しようもない激しい欠乏と悲しみを感じた、と言えば物語らしくもなろう。
 そのようなガタガタとシワネの一体性を持った交流の副産物として、シワネの言語の形をとる振動があり、そのおかげで彼女の周りにはたくさんの人々が集まるようになったことは彼女にとってちっとも重要なことではない。しかし言葉数は増えた。すなわち彼女は人間共と交流を交わすつもりはないのだが、食べ物を食べるようにして振動する性質から、人間たちに言葉の振動を返す。返すというのは意識的なものではないというのは説明したとおりだが、しかしやはり何らかの意識的なものがあると言わざるを得ない。たとえるとするならば人間とは逆で、シワネにとって言葉を放つということは人間が夢を見るようなものであり、シワネがガタガタと交流する人間には全く見えぬ分からぬ部分こそがシワネの現実なのである。そこでたとえの延長として彼女の恐ろしき孤独の叫びという現実が、夢の部分に明確に現れてもおかしくはなかろう。彼女にはだから人間たちの増加というものが何を意味するのかはさっぱり分からないが、何かを意味することは知っていたであろうし、夢の世界で言葉を話すに至って悲しみの、絶望の、交流不能の切実さが現れてもおかしくはないのである。
 いわば彼女はガタガタとの完璧な交流の不能と不可避性を黙示録的な激しさで言葉として吐き出した、と言えばよかろう。
 ……ガタガタ……いとしい震え……無意味なうなり声……しかし何かをあたしのケイ石に感じさせてくれる強い感覚、すなわちそれが彼女が生命を持つときに告知された原初的生命の交流の予感とでもいえるものなのである。むろんガタガタへの言葉での交流がなかった、といえばしかしそれは嘘になる。それはともかくに分かたれた何かの能力ではないと考えていただきたい。言葉というものも振動である。そして彼女がどうして振動に区別などつけようか。彼女がガタガタに関して次のような結論にたどり着いたということを筆者は断言してはばからない。
『あぁ ガタガタは振動が分からない言葉が分からない。もしくは伝え方が分からない。あるいは交流しあえない。もちろんあたしはガタガタのすべてを受け取っている。だからといってなに? あいつがあたしのことを受け止めてはいる? いいえ、それはあらんでしょ。そこが交流ではないという意味じゃあない。ガタガタはそんな言葉に意味があるとするならばただの人、ただの壁、ただの石、ただの鳥、ただの犬にすぎない。あたしはひとりなんだあ。だけれど、なにかがガタガタは違ってるということもあたしは知っている。だからあたしはこんなにもあいつを関心持って眺めているんだ!』
 本当のところ、つまらないことを言えば、この関係はただ彼女の振動に関してより多く関係を持っているということでしかないのであるが、彼女は(というより筆者は)それを愛と呼ぶことにした。彼女の想いを読めば分かるとおり、通常の生物というものは彼女にとっては非生物である。というのも彼女にとっては振動と光がすべてであるからであり、彼女は生物ではあるが、動物ではなかったと言えばもっと分かりやすかろうか。
 そこで、シワネはその特別であるところの透明窓に人間には計り知れない方法で自意識を教えようと思い立つ。むろんそれは彼女の現実ではという意味である。それは彼女の夢の世界、すなわち通常の人間界では次のような形をとることとなる。つまり、彼女は朝決まって明るくなってゆくときにガタガタに向かって、「……お……おはよぅ……わにゃがちゃ……」と軋むこととなったわけである。人間の互いどおしの交流を模倣しているところが実にいじらしいではないか。むろん、彼女の本意は夢の世界での交流ではないが、或る意味それは夢の世界での交流でもあることは先に説明したとおりである。
 彼女のおはようは純粋に振動と取られるときのみ人間がするようにガタガタにあいさつをしているということになる。その窓を構成の一部とする家に住む人々はこの彼女の挨拶を驚きを持って受け入れたことは言うまでもない。むろん、彼らにとってはそれが隣家の窓への絶望の軋みの副産物であることは思いもよらず、ただ好奇心から受け入れたことは言うまでもない。そもそもの話、人間と窓の話を両立して描くことの不可能性から省略してしてしまったのだが、彼女がガタガタへの強烈な交流を開始した頃から、彼女が喋る窓であるということは住民たちの一致した見解となっており、非常に興味深いことあるいは一種の奇跡であると思われていたのである。そのような自分への人間からの関心というのは単に彼女にとってほとんど無意味なだけの彼女の言語的側面への影響のみに留まり、或る日強い風が吹いて彼女がガタガタに「おはよう」と軋んだときに、それに共鳴するように透明窓も「おはよう」と軋んだとき、そのハーモニーに両者酔いしれたことが人間たちにどれだけ影響したかなど彼らには興味の持ちようのないことだった。それは窓たちの世界においては恐るべき歓びの世界であり、一方人間たちの世界においてその窓たちの歓びは「歌う窓」として現れたことは窓たちには何の意味もないのである。すなわち窓たちは人間たちの音楽を模倣して震えただけの話であり、それと歓喜がいわんや結びついているとしても、窓たちがわれわれが喜ぶときに歌を口ずさむ行為に倣ったのではないというのが筆者の見解である。
 筆者はこのシワネの成功についてそれが引き起こしたシワネの想いについてあるいは交流の諸相についてどのように表現すればいいのかさっぱり分からない。擬似的に人間の求愛と愛の陶酔に比較することはできるだろう。
 たとえば『うわあい これが暮らすということなんだ これが幸せということなんだ あ! なんだ ぜんぶ わかっちゃった なのに なんていう めぐみなんだろう? ああ なんていう ありえないことなんだろう? ぜんぶ わかっちゃってるのに いっつも よそうもしない よろこびで あたしたち 満たされているんだ! ああああ』とでも言えよう。
 しかし、それは擬似的に過ぎない。ましてやこれは絶望的に孤独だった窓の話なのである。そもそも窓に孤独というものがあるとしての話であるが。先に言うとおり、確かにシワネにあったのは生命ならどれでも持つ交流の深い記憶であり、それの完璧な欠如であったことを思い出せば、それがいくらかどころかほとんど人間の孤独というものに一致するということを筆者は言えるだけである。


 シワネはそうして伴侶を得ることとなった。筆者と言えば、彼女ら窓たちがお互いの交流にばかりかまってばかりいないで早くすべての窓を教育すべきだったという残念さでいっぱいだ。そうすれば彼女らはもっと深い交流を覚え、もしかすると社会さえ形成し、あるいは人間たちとの交流をも覚えたかもや知れないからである。
 しかし、シワネはそうしなかった。というよりできなかった。いや、そうでもない。それ以外の存在ではなかった、というか、筆者が残念がるところで彼女が感情を持たなかったと言うか、まあ、彼女らのことなど理解しようがない。ただ、シワネはガタガタとの強烈な交流に興奮し、ますます人を集めるようになっていった、というのがそれから起こったことである。
 シワネは今までもそうであったように意識的に言葉を吐いていたわけではないのだが、無意識的な人間との交流により語彙が豊かになり、ますますガタガタに言葉の形をとって話しかけるようになった。
 ガタガタはそれに比べてあまり饒舌ではない。というのも透明窓の家はにぎやかな家ではなかったからだろう。人間たちとの交流が言葉として出る以上はそう思うしかないわけである。
 シワネはガタガタに言葉というか何なのか交流の媒体とでも言えるようなものをたくさん教え込む。その間に人々の影はどんどん増えてゆく。
「奇跡!」
「ありがたや、ありがたや」
「おどろきもものき」
 そんな人々のことでシワネが何かを思うとするならば、それはうるさくて邪魔だな、ということ以外の何ものでもない。それに彼女は「幸せ」だったのである。まるで人類が宇宙に出たときのようなはしゃぎぶりだった。くそうるさい邪魔なだけの人間の影が増えることなど何の意味があろう! 
《振動の邪魔をするな!》
 ということだ。ガタガタなどは一時期は何も反応しなくなったぐらいである。というのは空気の完全な壁ができてしまうことがあったわけだ。そのときは彼女は恐るべき空間に取り残される。死んだ方がましの空間であったのでなかろうか。


 最初のうち、人々は珍しがっていたようだ。言葉を喋る窓として或る種の聖地にもなっていたといえる。それは明らかに人間にとっては奇跡であり、単なる恐るべき偶然であった。すなわち半端でない偶然であり、恐るべき奇跡であるということで、これは神による何かなのだ、ということになる。
 しかし、窓が話す言葉に聖なる意味ばかりがあったというわけではなかった。いや、むろん窓が言葉を話すだけでもじゅうぶんなのだが、大抵は日常会話ばかりだった。彼らは言葉どおりに取らなかったぐらいである。すなわちそこに予言あるいは深い意味を求めたのである。正直に聞けば、それには意味以上のものがあったことを筆者としては主張したいものである。彼女らの言葉は彼女らの現実における恐るべき交流の副産物としてあった。そこにはだから或る種の切羽詰った切実な生命ならではの物悲しさがあったはずである。それは彼女らの無意識の言葉の選択から分かるべきであった。それは得ようとしても得られないものが叫ぶ叫びであり、あまりにも求めすぎて疲れてしまったときに返事が返ってくるときの感極まったもがきであり、肉食動物がその生の最初のみに限定して手に入れるあの親からの物悲しいいとおしみにもたとえられる慈しみあいであったはずであろう。シワネは軋み、そして相手は軋み返す。むろんそこには人間に見えるような意識の通じ合いはない。なぜなら完全に物理に帰せられるからであり、物理的奇跡に過ぎなかったからである。しかし、それは彼ら窓たちにとっては物理学的奇跡ではなく交流の福音であったのである。たまらないうれしさ! その見えないところにあるフィードバック! 彼女らの興味と興奮はそこにあったのだ。そのために或る種の宗教的関心を持ってそこを訪ねてきた遠客はひどく失望した。というのも「窓自体がしゃべる」ことはもうすでに「それはありうるし、実際あることだ」ということになっていたし、その客がほしかったのは「そのことの意味」であったからであった。窓たちの交流は言葉になるとともすると窓の開け閉めや天気の話や住民が使う罵倒の言葉となって現れるだけで、そこに神秘の印など求めようがなかった。しかしそれはそれでよかったのだ。なにがおもしろくてそんなのを聞かなくてはいけないと人間がいくら思おうと窓たちには全く関係がないことであろう。それがささやかであったのかすら不明であるが、ささやかな交流こそが、彼女らの求めたことなのである。それだけだったのである。そうであってなにが悪いか。


 実際人間たちにとっては窓たちの対話が実はわずらわしいだけのものであったことは、さきの住民たちがそこを商売用として自分たちは別の部屋を借りて移り住んでいたという事実にはっきりと現れていた。しかもその言葉がひどくワンパターンであるのでそこには好奇心を注ぎ続けるようなものは発見しがたかった。また、人間たちのようにまったく睡眠というものを持たなかったので、彼らの夜のつぶやきといえば単なる不気味以外の何ものでもなかったといえる。それは始めは好奇心によって、福音・奇跡によって語られたものだが、それが忌まわしい呪いの言葉になるのにそう時間はかからなかった。変化もしない会話には愛想を尽かし、気付いたときにはブームをすぎてしまうのは、人間界でも同じであろう。すなわち、或る知り合いの熱愛カップルが誕生し、彼らの言葉は始めは奇跡的に思えても、次第に飽き飽きしてきて、イライラと敵意に変わるのはそれが窓であっても同じであったということができると筆者は信じている。窓たちの熱愛がどのようなものであるかさえも定かでないが。
 したがって或る日の新聞に、「喋る窓の売買」の広告が載ったが、それがほとんど部分的にしか感心を呼ばなかったこともそのような事情があろう。それが市場を持ったことは持ったのである。ブームは去ったとはいえ、その内容いかんを問わず「世にも珍しいものの所有」程度の価値は今だ有していたというべきか。直ちに買い手がついた。その窓が取り外された日は風がないよく晴れた日であった。窓はなぜかカタカタと震えて運送屋を困らせた。階段を下りようとしたとき、手が滑ったのか、ガラスは下に落ちて砕け散った。高額の紙幣が動き、その騒ぎも終わり、人々の間にいやな思いだけが残った。しかし、それもすぐに忘れ去られた。元居住者と一部の人を除いて。
 隣の家の窓はその後、ビュービューとうるさく軋んだが、そこに棲んでいたヒステリー気味のおばあちゃんが叩き割ったそうである。

 どこいくの? どこいくの? ……それは……

2010年4月19日月曜日

散文物語集 後編 前書き

 この物語群は中学生の課題作文の形式を純文学で用いるというなかなかない試みであるから、読者もまた、恋人の部屋で見つけた卒業文集を読むときのような精神でぜひ読まれたい。

ヒトラーの発狂

 ナチス親衛隊は驚愕した。おりしもニュルンベルク法も施行され、ユダヤ人の血統証明の方法も確立されたさなかであった。その日、ヒトラーはユダヤ人が何であるか、を忘れ去った。いや、彼の中のユダヤ人を定義するなにかの本質を失った、いや、それを何といえばいいのだろう。正確に言えば、ヒトラーはユダヤ人のことを忘れてしまったわけではなかった。彼はなお、こう主張した。
「ユダヤ人は匂いで分かる。ためしに、これといった人物をつれてきたまえ。わたしは彼がユダヤ人であるかないかを当てて見せよう」
 ところがヒトラーは視察の折に、十人の正真正銘のユダヤ人を解放してしまった。開放されたユダヤ人たちは、
「この世のエホバ!」とか、
「ありがたや、なむあみだぶつ、なむあみだぶつ」
 と喜んでヒトラーの人格を賞賛するのだった。部下がおかしく思って問い質すと、総統は首をひねって、こういうのだった。
「どうもあの人たちはユダヤ人だとは思われないのだ…」
 ヒトラーはそうはっきりとしない声でつぶやいた。部下は答えた。
「陛下の確立された血統証明法があります。恐れながら申し上げますが、彼らはそれによると皆、間違いなし、正真正銘のユダヤ人であります…!」
 ヒトラーは叫んだ。
「血統だと?! そんなものがなんになる。それは何らの魂でも匂いでもない。わたしが憎み憎んで請い足りない、絶滅をこいねがうところのユダヤ人とはもっと厳密なものなのだ」
 そのうち上層部には、総統がユダヤ人を分からなくなる一種の痴呆・幻惑状態に陥ったという連絡が行き渡り、医者・心理学者・魔術師・哲学者などが駆けずり回った。それでもなおもしかしヒトラーの精神はユダヤ人への憎悪に燃え、ユダヤ人に対する弾圧はますます激しくなってゆく一方であった。ユダヤ人とはもっと厳密なものなのだ… ナチスに刻まれたヒトラーのこのつぶやきは、ユダヤ人たるにすこし足りない半ユダヤ人・偽ユダヤ人や、かろうじてユダヤ人であるような者等を撲滅する精神として、歴史に名を挙げた。ヒトラー総統は、その生命の最後の日の前日に、愛人エバ・ブラウンと結婚した。自分がまさにヒトラーという存在であるという限りない恐怖から逃れるためでもあっただろうし、あるい二重螺旋状に愛し合った大切な存在と心中するための準備でもあっただろう。彼は愛人エバ・ブラウンの前にひざまずいた。そして結婚を希うのであった。
「我、アブラハムの妻になりたまえ…!」
 ヒトラーがそう言うと、エバ・ブラウンはこう答えた。
「キャハ! じゃあ、それになっちゃう!」
 最後の日にヒトラーが敗戦のことを考えていたとき、愛人が、いや元愛人が笑いながらこういうのだった。
「ねぇ! あんたが負けた戦争もユダヤの陰謀じゃない?」
「何だ!? 『ユダヤ』とは? 訳の分からないことを言うな!」
 愛人は総統の痴呆の進行を驚きの眼こで見つめ、その日、ミュンヘンの画家たちは筆を折り、ユダヤ人陰謀学者たちはその研究をストップし、銀行家は金と貨幣などの交換活動を停止し、工場はその日の生産を遅らせて、ヒトラーの痴呆を悼んだ。ヒトラーは寝室を歩いていた、右手にピストルを持って。
「何か大事なことを忘れている… 何かを忘れているんだ… 何か」
 いつのまにか、ベッドの上には、モーゼやダヴィデやソロモンが座っていた。
「なあおまえら、わたしは大事なことが思い出せないんだ。キリストよ、我にあわれみをあたえたまえ。子供時代の草原のような… どうして世界はこんなに荒れ果てているのか? おまえらは知らないか?」
 愛人が次にドアを開けたとき、ヒトラーは既に絶命していた。
 あるいは、その愛人の脇を押しのけて小柄な妻が飛び込んできた。
「ああ… ああ… あたしの総統。…しんじまったわ…」そういって、ブラウンもまた、こめかみに銃を当てて引き金を引いた。
 あるいは、小柄な妻のひざの上には青ざめた総統ヒトラーの顔が乗っており、エバの表情は、なにもかも分かったような、あるいはけっして何も分かるまいと断固に満ちた光が宿っていた。彼女の鼻の穴からもかなり太い血の筋が垂れていた。
 そしてエバは昨日夫となった愛人のほうに輝きに満ちた瞳を向けてこういった。
「彼はついに帝国に打ち勝った。この世を並する、同じようにする力に抵抗する力に打ち勝った。敗戦はほんの手始めに過ぎないわ。人類はもっと壮絶な苦しみを舐め、そして第二のヒトラーも、ねぇ、あたしとまた結婚してくれるかなあ? うれしかったあ!」
 そういってひどく咳き込み始めたかと思うと、そのうちに動かなくなった。

消えた男性陣

 行き遅れた女性たちが思う。あれほどたくさんいた男性たちはどこへ消えたのか、と。社会学の教えるところによると少なくとも三人に一人以上の男が結婚することなく生涯を終える。まさにそこに男性の秘密がある。つまり男性に訪れる結婚発情期は、一人の男性の生涯ひとつにつき多くて二・三回、しかも数ヶ月しか持続しないのだ。女性が頻繁に比較的長くて持続的な結婚発情期を持つのに比べて、男性はほとんど瞬間的、まさに射精的である。こうして多くの男性がいつ結婚したくなるのか自分でも分からずに過ごし、結婚したくなったと思ったら長く続かず、あるいはその願望を失った状態で妻を発見し驚愕して首を吊ったり、そのまま生涯結婚制度の存在を忘れたまま過ごしたりする。わたしの隣のおばさんがわたしに教えてくれたところによれば、最近の若い男性は、ただでは結婚しようとしない。お金をジュネーブの隠し口座などに持っていたり、何ヘクタールかの畑を持っている、あるいは持ち山がある女性を結婚相手として想像しているそうだ。女性の持参金は、女性の近代的自我よりも遥かに重要であることは明らかだ。それにまた、そのような傾向の奥には、じつは生理的な事情も含まれているというわけだ。

本当の妻はだれなのか?

 阿木さんの奇妙な話を知ったのは最近のことだ。
 阿木さんは、いわば引き出しを多く持つ、だれにでも併せることができる話し手で、知り合いも多い。女の子もそうした阿木さんに惹かれて、恋をするが、阿木さんは大体のところ、異性に優しく、優しいところはあるがそこまで情熱的ではなく、恋愛に関してはすべての筋書きを相手に任してしまう。そこで、「あなたの意志はどうなの? あなたはわたしに対してどんな気持ちを持っているの?」ということになる。
  そんな阿木さんが結婚することになった。相手は10も下の美人で、周りの人は、阿木さんはあまりにもいい人過ぎるので、だまされているのではないか、と思ったものだった。別に財産目当てとか言う意味ではなく、愛情というものがほとんどないという意味において。
 阿木さんは、だいたい、部屋にこもって仕事をする。その間は、誰も入ることはできない。そこで、阿木さんの妻のそねみさんは、夜の11時になったら、阿木さんに確認した上で、部屋に入り、床を共にするという習慣である。しかし、何を思ったか、そねみさんはその習慣を嫌がるようになった。生理的嫌悪感にまで気持ちがおい詰まるのにそんなに時間はかからなかった。
 そねみさんは、友人に相談することになった。夫に鞭打つことが趣味のその友人は、阿木さんがいつもぼんやりとしているように見えたから、そねみさんにあまり成功しそうもない提案をした。誰かそねみさんによく似た女性を雇って、そねみさんに代わりに阿木さんの寝室に行かせるようにしたのだ。その作戦は、見たところうまく行き、雇われた女性は、月給30万で、毎日11時になると、阿木さんの部屋に入り、床を共にするということになり、その間は、そねみさんは、友人の家に眠ることにした。
 困ったことにそねみさんが知らないうちに、雇われた女性がまた困ったことになった。だんだん、阿木さんの寝室に行くのがいやになってきたのだ。そこで、雇われた女性の茶羽さんは、友人に相談した。そこで、同じように、月給25万で別の自分にそっくりな女性を雇って、代わりに阿木さんの寝室に行かせるようにした。
 そんなことをしていくうちに、6人の女性が入れ替わり立ち代り阿木さんの寝室に行くことになった。そのことに気づいた女性たちは、そねみさんが作成した計画表にのっとって、月曜日はそねみさん、火曜日は茶羽さん、・・・というように交互に阿木さんの寝室に行き、互いの負担に耐えることにし、それぞれの報酬を平等に分割することにした。
 さて、阿木さんといえば、ずっと寝物語をしていた。今日は仕事の話、今日は妻の話、今日は最近のニュースについて、というようにさまざまな物語をしていた。女性たちもまた、その話に合わせるようにして、それぞれの話を記録し引き継ぎ、また、細かい情報を互いに合わせることができるように工夫した。多少の間違いがあってもいいように、多少気まぐれな調子になるよう、女性たちは工夫して、あたかも一人の女性が阿木さんの寝室に入っているかのように見えるよう考えた。
 そうこうするうちに、そねみさんは、だんだんその無頓着な夫のことが好きになってきて、そんなにいやな感じもしなくなってきた。また、すこしずつ別の雇っている女性たちの行為について嫉妬するようになり、困り果ててしまった。そこで、再度友人に相談し、どうしたらいいか、とたずねたところ、そんなことはやめればいい、と友人は言った。そねみさんも、確かにそのほうがまともだなあ、と心底思い、申し訳ないけれどもわたしは夫を愛しているので皆さんには悪いけれども、また、再び自分が毎日阿木さんの寝室に入ることにします、と言った。
 しかし、今度は阿木さんが困り果ててしまった。というより、驚いてしまった。毎日訪ねてきていたあの女性が、つまり妻がいきなり別人になってしまった。違和感を感じて、或る日耐え切れなくなって、「おまえは何者だ。妻に頼まれてきているのか? 妻はいったいどこにいる?」と聞いた。そこで、そねみさんも困惑してしまった。「わたしが妻です・・・」と主張してみたものの、いっかな阿木さんを説得できないことに気づいたのだ。つまり、わたしは確かに阿木さんの寝室に毎日のように訪れていたあの一人の女性とは別人である・・・
 二人は別れ、阿木さんは妻を捜し求めた・・・
 事情を聞いても、それは嘘だ、あの女性はいったいどこに行ったのか、なぜわたしのところを去っていったのか、わたしのことを嫌いになったのか、どうしてももう一度会いたい、と望み、あの妻を捜し求め続けた。

夫婦の帝国

 母親は息子について嘆いた。
「いい年をして定職にも着かずぶらぶらと妻と遊びまわって、他の人間の付き合いがあるでもなし、友達がいるわけでもなし、この妻がまた妻で、家の片付けもせず、散らかし放題で、服は脱ぎっぱなし、家事をしないで、いつも、気がついたらホテルに行って、セックスばかりしている」
 その夫婦は夫婦共に無口な性格だった。夫は気が弱く要領が悪いので仕事をすぐ変わった。妻は物事を理解するのが遅く、あまり人と通じ合えない性格である。その二人が愛したのはセックスであった。一日中でもできた。朝起きるとそのまま始め、ろくに食事もとらずに昼もいちゃいちゃと続けて、夜になっても続けるが、このころは家でするのも飽き飽きて、妻が
「ホテルでしたい」
 と望むので、両親のお金を盗んだりし、ホテルに行くこともしばしばである。食うものくわず、まともな眠りさえ取らないこともあった。父はもう息子に無関心なので母親が叱った。
「この世にはまともな生活がある。ちゃんと働いて、男なら仕事に責任を持って、ちゃんと家庭を持ってそれを維持し、それなのに…」
 息子は頭を床にこすり付けて
「ごめんなさい。もうしません。改心します」
 と繰り返し、小柄で可愛い妻も
「もうしません」
 とばかり同じように繰り返している。
「まともな生活をすれば二人の生活だってずっとよくなるし、したいことだってできるでしょ。あんたもあんたですよ。部屋を散らかして、物も服もほったらかして、裸であるいたり、トイレからは匂いがする。女の仕事を全然できていない」
 妻は
「ごめんなさい」
 と馬鹿みたいに繰り返すが、結局二人は次の日になったらケロリと同じような生活を繰り返すのだ。男は思う。
「男なら仕事やもっと偉大な何かがあり、そのために自然に生きるようになると聞くのに、ぼくは三十半ばになってもちっともそんなことにはならないで、ますます妻が可愛く見えるばかりだ」
 妻は黙ってもの欲しそうにベッドに座っている。
「今日は…仕事…行くの?」
「今日は行ってみる」
「少しなら家片付けておくから…ね?…」
「うん、分かった。新しい趣向の服を買ってくるから」
 何も言わずに妻の眼こが輝いた。ぼくらはきっと絶滅する種族だ。結婚式に集まってくれた百人の皆さん、ごめんなさい。ぼくら夫婦はあなたがたの列には加われませんでした。しかしぼくらは生ある限り愛し合い、いつくしみあい、またぼくらが人生で最も価値がある行為と思うものを続けます。仏様、それでいいですか?

政治

 貧困と差別と孤独に対する何らの方途をも持たずして政治家になるのは、ドンキホーテに過ぎない。ましてや世界の平準化という帝国に対抗する眼も軍隊も持たないのにどうして立候補なんかすることができる? 彼は分配も観察も共同体も知らず、政治の本当の敵も知らないで、どうやって政治家になるのだろう? あっというまに、帝国は彼を飲み込み、そしてまた、吐き出すだろう。彼はそのヘドロの中からはいずりだすようにでてくると、まるで政治家のような言動を始めるのだ。政治を知らないぼくの側には、お願いだから、寄らないでおくれよ。政治のほうはぼくのことを知っているのに、ぼくは政治のことを知らないからといって、くやしくてぼくに政治について教えようという魂胆だろう?

魔術師

「さて、どうでしょう?」
 観衆の前でその奇妙な男はにわとりに自分の腕を突き刺した。ぎょっとした観客を尻目に、ものすごい怒号のような鳴き声がしたが、そして男はそのにわとりの中から、もう一羽の生きた、そして不思議なことにきれいなめんどりを一羽取り出した。そして血まみれのにわとりを脇にぶん投げると、今度は先ほど取り出したばかりのめんどりに再び手を突っ込んで、今度は犬を、子犬を取り出し、そしてまた子犬からは猫を、猫からは子馬を取り出してゆくのだった。男の周りにはまたたくまに動物たちの死骸が溜まって散らかってゆくのを観衆は見ていた。男はいった。
「これが私の最高の秘術の生命召喚法です。この方法は生命から生命を無限に取り出しますが、生きている生命は残念ながら常に一個体に限るのです」

えりか

 およそ数年間も勤めているのにそんな時間に気づいたこともなかった。しかし最近、二時ごろから数十分、奇妙な静けさと共に或る女と共に事務所に取り残されるのだ。その女はめだたない、およそしゃべることのない暗い女であるが、よくよく見ればこれまたはっとさせるほど美しい。しかしどことなく男、いや人類を拒否していてその内面を遮断している雰囲気で、実に冷淡な感じである。無駄なこと以外はしゃべりませんわという顔をして業務を続けている。その業務の仕方がまた独特である。およそわたしはこんなに遅い事務処理を見たことがない。いや正確に言えばわたしは誰かの事務処理の速さなど比べたこともないのだが、極めてそれはゆっくりと行われているように見える。しかしそのゆっくりさは一種執拗であり、まるで夫にヒ素を盛るときのような正確さと持続力を兼ね備えている。そんな女がいるとは今まで気にしたことがなかったのだが、あまりにも気になるのでちらちらと眺め、誰もいなく、つまりその女と二人きりになったときには、仕事の手を休めてずっとその女を観察している。そのわたしの視線に気づいているのかいないのか、きわめて冷淡で拒否的な素振りである。とにかくしゃべりかけてこないでくださいという空気が漂っているのだが、もしもわたしが眺めているのに気づいていないのなら、これは相当な努力である。より正確に言えば、わたしはえりかと、つまり彼女としばしば言葉を交わしている。多くの場合業務上のやり取りだが、そうでない場合もある。つまり
「あついなあ、ちょっとあつくない?」
「あついですね」
 の類である。
「こういう日にはビールが飲みたいのだ」
 そんなことを言ってみると、お笑い芸人がやるようなあの表情、つまりなぜこの人はそんなことを言ったのか、何に反応したのかをちらりと眺めて確認する無表情な顔をしたかと思うと、お話は終わりですね、といわんばかりにデスクに眼を戻すのだ。それがわたしを嫌っている素振りならまだいいのだが、そうではない、彼女はまさに話が終わったので業務を再開したのだということがわたしには分かってしまうのである。つまり彼女えりかはそういう無駄のない、隙きのない女なのだ。調べてみても浮いた話のひとつもなく、趣味も休日の過ごし方も知られていない。知られていないのは問題だ、職場の協調性に反する、是非わたしが問い質そう、そう啖呵をきったのはいいが、きわめて隙きがない、つまり武道家が熟練と修行の最後に行き着くといわれる徒手空拳のフリースタイル、いわばかまえ無きかまえ、彼女の沈黙の姿態はその領域にまで達しており、どこからどんな話題を話しかけようともわたしはきっとぐさりと刺されてしまうだろうということが分かる。何を刺してくるのかは分からないが、何かが来るであろう。それは言葉ではあるまい。暴力でももちろんないし、何らかの一発芸でもありえない。
「あは! ○×さん、おっかしい!」
 なんてことは絶対ありえないのだ。しかしわたしは自分の特有の粘着質を発揮して、えりかが恋人らしき男と歩いているのを目撃することができた。それは大柄で筋肉質の男であり、わたしが寝てもおかしくはない、なかなかハンサムである。それにしてもえりかは何と美しいのだろう。まさか外で見るとこんなに美しいとは思わなんだ。そうして眺めていると二人はまったく言葉を交わさない。次の角でも次の店でもずっと言葉を交わさず、触れ合うことさえない。いや正確に言うと何度か
「トイレ行っていい?」
 というささやきはあった、あったはずだ。しかしそれ以外の言葉も身体接触もなく彼女は部屋のドアを閉め、わたしは彼女のマンションの場所を知ってしまった。こうなったらわたしにもイニシアチブがある。わたしは、
「ねぇ、えりかさん、きみ、この前彼氏と歩いていたでしょう?」
 と「えぇ!? なんで知っているんですか、主任?」などといった返答を期待することを微塵もすることもなく話しかけた。えりかはゆっくりとわたしの足元から胸、胸から顔というように眺めあげたが、そこには独特の冷淡な軽蔑が宿っていた。
「いいえ、違います」
 とえりかは答える。
「もしよかったら証明してみましょうか?」
 驚くべきことにえりかのほうからわたしに接近してきた。まるで数ヶ月わたしを何らかの策に陥れようという作戦を今確実にゆっくりと真綿で首を絞めるように実行し始めたかのような確信に充ちている。逆にわたしのほうが戸惑い、
「い、いったいどうやって証明するんだ?」
と言うと、えりかはこう答えた。
「わたしがちょうどその男と歩いたようにあなたと歩いてみることによって、またかつ、あなたをわたしの部屋に、条件によっては、案内することによってです」
 わたしの眼がキラリと輝いた。
「えりか、きみは実はすごく美しい顔立ちをしているね」
 えりかはこういう。
「そんなことは重要ではありません。目下のところ、わたしたちの義務は手をつないであるくことです」
 わっと就業時間が終わり、外に出て、或る程度道なりに進んだわたしの右手にスルリとえりかの手がすべりこんできた。と思うとその手はわたしを押しのけて一定の距離に保つと、彼女は、
「じゃあ、わたしの歩くほうへとちょうど歩くようにするのです」
 といった。えりかとわたしは恐らくえりかにしか分からない必要性があって、さまざまなところを歩き回って、太陽も沈みかけてきて、わたしはほとほと疲れ果ててしまった。だからえりかが
「ここがわたしの家です」
 といったとき、わたしは間違って、
「知っている、前に来たことがあるんだ」
 と答えてしまった。それを無視してえりかは、
「テーブルの上にすでにあたたかい紅茶があります。それを飲んで下さい」
といった。そして廊下の向こうへと消えた。わたしは何とか紅茶のあるテーブルについて五分かけて紅茶を飲み、五分かけて煙草を吸っていいか考え、五分かけて煙草を吸った。そして立ち上がると、
「えりか! えりか! いったいどこへ行ったんだ? おれをどうするつもりだ? えりか!」
 と叫んだ。そして部屋中を探し回り、ドアからドアへ窓から窓へ移ったが、えりかを見つけることができなかった。と、目の前の水飲み場に彼女がいるじゃないか。
「えりか! どういうつもりだ? どうして返事をしないんだ。何度叫んだと思ってる?」
 えりかは何ともないように答えた。
「しましたよ、返事。何度も」きこえませんでしたか、すみません、
 それは言ったか言わなかったのか。わたしは怒りにまかせてえりかの腰を抱いて、そのまま押し倒し、抜け出そうとする足を上から押さえ込んだ。そのときえりかの眼こには低級なものにたいする哀れみのようなものと距離の感情、軽蔑の情がその無表情さにもかかわらず、はっきりと現れているように思われた。えりかの顔立ちは、凹凸は少ない緩やかな平面状の美人系であり、きわめて蠱惑的に点灯した。
「おれはずっと見ていたぞ。えりか。太陽が最もまぶしくなるときちょうどおまえとおれはひとりになる。そのときおれはずっと仕事もせずにおまえを眺めていた」
 えりかは少々バタバタと手足を虫のように動かしたが、そのうちにタオルのように大の字になっておとなしくなった。カーディガンがイラン風のミニアチュール模様を床の上に正方形に、われわれ男と女それぞれの民族の歴史と共に、正方形に広く広げていった。えりかはわたしの言葉に答え、こういった。
「そんなの始めて知りました。でもどいてください」
 わたしは、えりかの腹をつかんで、その美しい顔に近づこうとしたが、途中でやめて、
「悪かった。もうわたしは戻ろう」
 といった。
「出来事も家も忘れる。えりか、おまえの虎の腹のようなお腹の手触りも、近づいたときのむせるような匂いも、すべて忘れる」
 そう言って、わたしはテーブルのところの煙草を取って戻ろうとした。そのときわたしはえりかのほうを顧みようとしたが、再びいなくなっていた。
「えりか! どこ行った? おれは戻るぞ!」
 わたしはそう叫んで、耳を凝らして返事をききとろうとしたが、ついぞききとることはできなかった。わたしはまた、本棚の上にあるピラミッドの置物を取ってポケットに入れて、外に出ると真っ黒だった。えりかの気配はその闇からも、またマンションの内部からも完全に消え去っていた。

蟻の話

 仕事の結果がなかなかでないで苦しんでいるとき、一番親しい同僚が蟻の話をしてくれた。百匹の蟻を自由にさせるとそれぞれ蟻は動き回っているが、その動きにはほとんど意味がなくただうろちょろしているだけで、大体そのうち二十匹ぐらいの蟻だけがまともな労働、つまり自分の属する蟻集団にとって益する仕事をしている。だからその有益な二十匹を取り出してもっと効率のいい、まじめな、政治家好みの集団を作ろうとすると、今度はそのうちの十六匹の蟻が突如翻ってただうろちょろするだけの遊ぶ怠け者のする無意味な活動を始める。ぼくらの仕事はきっとまさにその八十匹の蟻のほうがしている活動なのかもしれない。でもその八十匹がもしもいなかったら残りの二十匹も不思議に働くことは決してなかったかもしれない。それにまた、だれも、だれがうろちょろしているだけなのか、だれが労働しているかなんて分かりはしないんだ。
 その頃ぼくたちは毎日のように喫煙所で勉強会をしていた。

さなえ

 おそらくその女と付き合ったり、結婚を考え望んだりすることはない、実は親しくもしたくない、親しくできるとは思わないんだ、むしろ。一緒にいたら楽しくないだろうな、ノリが違う、と思う。でも分かって欲しい。さなえ、その女はさなえという名なんだが、ぼくに異常な魅力を持っていて、手足の一挙主一挙動がぼくを引き裂くように誘惑してくる、その顔の形、無力な表情、高くてはっきりとした鼻立ち、うすくて小さな唇、ひとえの大きなつぶらな瞳、小ぶりだが決して小さくはないしっかりふくらんで肩の下からバランスよく配置された双球の胸、ちぎれそうな腰、そのすべてがやばいんだ、そんな異性がいる、そしてその異性に、いやその種の女性に対する執着は生涯に渡るのだろう。いっそ人形や奴隷、あるいは奴隷人形やその他の玩具として所有できたら何とすがすがしいことだろう。ぼくはこうしたたくさんの愛を持ち、一緒にいて大切にして結婚するに至るようなまともな愛着とはまったく別に、それを自分の大切な一部分として持っているんだ。フェティシズム? 何の話だ? ああ、さなえだ、さなえの話だった。足首から首の付け根、うなじまでさなえは完璧だった。そのことはだれでも認めた。だれでもといっても中学・高校の話だよ? だれが美人かと言えば多分三番ぐらいには入るんだ、だがしかし、だれも近寄れない、美しすぎるからではない。そうではなくて一緒にいても楽しくない、絶望的にノリが違うということが分かるんだ。天然パーマの不細工の女がさなえの唯一の友達だった。二人でひそひそ小さな声で話しているのをぼくはよくじっと見ていたものさ。そればかりか何度かは罰ゲームを装って話しかけたものだった。しかし彼女が返事を返せたことは一度もないよ。返事の仕方を知らないんだ。あんなに無駄な美しさは見たことがなく、存在することもあるまい。そこでぼくは始めたさ、つまりいじめをさ。もう四年も前の話さ、別にかまわないだろう? それからはさ、すごい萌えさ。萌え萌えだよ。ぼくはさ、何も足首が好きなわけじゃないさ、分かってそこんとこ。でも、さなえのスリッパと靴下を盗んだときには泣いたよ。内側に足首が少しそねっている畸形が、裸足ですこし色が黒ずんでて、すんごく綺麗。
「先生、わたしなくしたんです」
 訊かれもしないのに来る先生ごとに説明している。そんなことよりぼくにはさなえの足のくびれの部分が腫れ上がっているように膨れた球形をしていることにほとんど半日も夢中であった。あの足は、童顔の熟女の母親が実は自分のほんとうの妹ではなかったことを知って流した涙よりも萌え深い。ぼくはいよいよさなえの肉の形体について魔術にかかったかのようにして執着を深めていったのである。それは決してさなえの人格や心に対する興味ではないことはぼくをむしろ苦しめたほどだった。乙女とは、恋と性についての想像の技術と作法を身につけた女のことを言うが、ちょうど中学から高校の初年度に女子らは乙女になるか、乙女の状態を一度経過する、ところがさなえが彼女の友人にこう強弁していたときほど激しく萎えたことは、壁に身体を何度もぶつけたとしても、かつてないままに終わるであろう事を覚えている。
「わたしもう少女なのじゃなく乙女なのよ」
 そのときのさなえの存在ほどうざかったものはこれからもこの宇宙に存在しないで時は過ぎ去るであろう。ぼくはそれを聞いて、お前のような女の自己主張ほどどうでもよいものもない、と思った。世の中にはその美しさのためにはけっして自己主張してはいけない女がいるものだ。同時に、その種類の女は自己や人格にも無縁でなければならない。そのときに彼女の美の関数は最大値をとるのだが、まさにさなえはその種の女だった。であるからぼくはますますさなえの意思を超えた実験をすることによってさなえを消費する必要を感じるようになっていくのだった。ぼくのその実験的ないじめはまさに彼女を困惑させた、その困惑こそが、彼女の自己に対する確信を失わしめて、ますますさなえを美しくいったのだ。たとえばあるときは、ぼくは、いじめられっ子でさえない男子の教科書とさなえの数学の教科書とを交換しておいた。それでどんな反応をするのか見ようという魂胆さ。まずかばんから教科書を取り出したときのさなえの表情よ。ぼくの身体の下半分は萌えのあまりに震えだして心臓が今までにない電気で動くのを感じたほどだ。ぼくはあのときのさなえの表情だけでごはんが三杯は頂けるが、いやもっと言えば、さなえが授業中ずっと差別的な作戦を練りながらじっと動かずに放心しているのを見、また休み時間になったらトイレに行く振りをしてその男子のかばんの中にぞんざいに投げるように、しかし音もなく誰にもけっして気づかれることもない、修行者が三週間目で会得する無心のさりげなさで、するりと入れたときのさなえの冷たい表情なら苦手なピーマンも五つは生でいける。さなえが受けた撹乱はそれだけではない。ノートにはいつの間にか卑猥な写真がはさまれていたり、自転車のサドルが三回も別のものに入れ替わったりする。もちろんそのサドルは今でもぼくが持ってるさ。そればかりか、とても彼女には解けそうもない数学の章末演習問題Bの中の特別技巧的な一問が、まごうことなき「彼女の筆跡」でノートに書かれているのを見たときのさなえの口の金魚運動の生半可ではない萌え波動よ。そのときのためばかりではないが、ぼくは、さなえに関しては、筆跡・文字、絵、声に関して、完全に形態模写・模倣することができたのだから、その事実によってさなえの生が受けた巨大な、右や左への変化は、口で表現できないほどだった。さなえの実家でも同じような変化が起こっていた。机に置いていたものはテレビの上に見つかる、そのようなものばかりではない。散らかったり、片付いたりの周期は規則的にナイル川近辺の天候に似た形で繰り返され、また物は増えたり減ったり消えたりするのさ。さなえはひとりになったとき、歯軋りしてくやしがり、訳も分からず髪をかきむしったり、わめいたり、およそ少女の口から出るとは想像することもできない呪いの言葉を吐いたりし、泣き出すのだが、そのときほどぼくの胸が締め付けられてキューと苦しく、あわれで、かわいそうで気の毒に思い、同情したことは、ぼくの人生でかつてない。わけも分からず怒り出した友人にのけ者にされて疎外感を覚えているさなえ。物事が自分の思い通りに進まない卑小さに震えているさなえ。虫の動きや自分の知的操作(推論)の見事さによって、ああこれがそうなのか、と豆電球がついているさなえ。次々と不遇の死を遂げる飼い猫や飼い犬などの意味もなく訪れる突然の死や悲惨な事故によってとても大切なものを失って心の中にぽっかりと穴が開いたような空虚さの中にいるさなえ。どのさなえもわたしの全身の穴からの萌え汁でわたしの鋭敏な受容体を充たさなかったさなえはどのさなえにもいなかった。ぼくはさなえに対して罪の気持ちを持ちなにをしてやれない気持ちさえ感じた、そしてそんなときはさなえもまた怪訝そうな顔で自分の人生を見つめるのさ。そしてそんな表情でぼくはめしを何杯も食べれるのだ。ぼくとさなえの間にはいかなる親密さもなく、いかなる言葉も交わされることも交わすこともなく、それなのに、どんな家族よりも恋人よりも妻よりも深くつながっていた、だからぼくは、学校制度がさなえとぼくを引き離すということを知ったとき、正直言ってショックを受けた。そしてそのショックで放心しているとそのうちに身体が震えてきた。ぼくはもうあの、棒でめくられた背中とも、ぶつかって露出したお腹とも、たまらずめくりあげられた二の腕とも、ひとりだけの私服とも関係のない生を送るんだ! それこそが男のまともな道というものさ! ところがどっこい、世の中には第二のさなえ、第三のさなえがいて、無限に存在する種族を構成して散らばり、機を見てぼくの目の前に飛び出そうと待ち構えているんだ! おおさなえよ、おまえはぼくにおまえたちを教えてくれた…

英文法のF先生へ

 先生の授業を聞いて、英文法についての理解が進歩することほどぼくにとっての喜びはありません。ただようやく英語が苦手なぼくでも、Sが攻め、Mが受け、であることを何とか分かってきたんですが、さらにVとかOとかになるともうまだ、分からないのです。
O=ゆるい攻め(?)あるいは「オォ!」という震えんばかりの叫び
V=攻めるための道具、あるいは道具を使った攻め
 と言う解釈でよろしいでしょうか?
 そう考えれば、有名な公式「SVO」とは「道具で攻めてオォ!」と意味が通ると思うのですが…。しかしそう考えても疑問が残り、やはり今度はCとは何かという鞭によってわたしの無知がしばかれるのです。だから、
C=開けられた首輪
O=閉じた首輪
 と考えれば「SVOC」とは「道具を使って攻めながら 首輪開放 アメとムチ!」となると思うのですが、いかがですか? ですから当然「SVOO」とは「道具を使って攻めながら 首輪はそのまま フェイントか?」となるのですか?
 目下、勉強中です。応援しています。

カルネアデスの舟板

 急に足元がぐらつき、バネがちぎれたような音がしたかと思うと、わたしは夜の海に投げ出されていた。談笑していた妻があっという間に波間に飲まれて遠く、おぼれていて、近くではないが母の無表情な顔をちらりと見ることができた。わたしは小さな板切れを手につかんでいてその板はわたしを一時的に数日は生かすだろう。
 夜なのに不思議な光が辺りを照らしている。
 過去に向かう光の筋が母のほうに向かってのびていて、母の横顔を照らしていた。
 未来に向かう光の筋が妻のほうへ向かっていてすべるように何かを必死につかんでいる、つかもうとしている妻の細い腕から全身を包み込んでいるのが見えた。
 母の胎内の中にはわたしの歴史が見え、妻の子宮の中には私の子々孫々が戯れているのが見えた。わたしはこの夢の中で、板切れを与えることによって、母を助けるか、妻を助けるか、そのどちらかをして自分を殺すか、自分が生き延びるかを試されているように思えたが、でもわたしにもっとよく分かっていることは、この状況は、この選択は、つまりこの倫理学は「解なし」であることだった。ないように思えた。わたしとわたしの友人はもう十年もこの問題に取り組んでいて、解決できずにいたし、この夢の中でもきっと無理だろう。わたしは友人と共に板切れを離し、溺れ死ぬことによって、きっと全滅の道を選ぶだろう。なぜならロシアの天才小説家ミハイル・フョードル・ドフトエフスキィが言うように、愛無き生は地獄であろうから。
 そのときもっと遠くから、あるいは別の次元からなのか、そんなことは知るもんか、もっと強い光と共にマザー・メアリーが現れて、わたしたちと海の群青色を照らし出した。その強大な光の下でわたしたちはそれぞれわたしたちであることの区別を失った。わたしはわたしでなくなり、妻は妻でなくなり、母は母でなくなり、あるいはまたわたしは妻であり妻の息づかいであり、あるいはわたしは母であり母の疲労であったし、また妻はわたしの選択に直面し、母は妻としてわたしの視線にさらされた。すべてを一体化する光の下でわたしたちの選択肢は意味を失い、マザー・メアリーのこんな声が聞こえた。
「ひとりはみんなで、みんなはひとりで、あなたは彼で、彼女はきみの分身で、きみが殺した男の傷はきみ自身の傷で、きみの敵の喜びときみに対する征服感は同時にきみの喜びであり征服感であり、そんなことがわからないきみはしんじゃえ! しんじゃえ! しんじゃえ!」

FAMILYって、FAther! Mather! I Love Youの略ですか?

 父は怠け者ではなかったが、仕事がなかった。月に十日もあればいいほうで借金はかさむ一方であるので、ますます生活保護ですら受けられない。母は怠け者で働こうとはしないし、家のこともほとんどしないのに、だからかえってそうなのであろうか、世間体を気にすることだけは一人前である。三歳年上の姉は病弱でおとなしい人だが、ほとんど病院にいるのであまり知らない。ぼくはもう三年も学校に行っていない。そればかりか、もう半年も家の外に出ていない。家の外に何があるのかも分からない。コンビニとスーパーがぼくの町には一軒ずつあるが、そんな場所に行ってもお金はない。都会なら無料で本を読んだり、ゲームをしたりできるらしいが、ぼくは都会が怖い。この町、ぼくが引きこもっているこの町以外の町について何一つ知らないし、知るのが怖い。どうやって暮らせばいいのか分からないのだ。父は時々パチンコに行く。それが父の仕事以外の唯一の外出だが、そのとき雑誌を持ってきたことがあった。ぼくの教科書はそれだけで、そして外の世界はこの町と違いすぎてとても生きていけそうもない。母が近所中を回って姉の病気についての寄付金を集めて回っている。そのわずかなお金は食費に使われないときには姉のお菓子代になる。ぼくは先月姉を見た。姉が一日帰ってきたときに、ちらりと姉を眺めたとき、こんなに美しくて若い女性を見たのは初めてだ、と思った。ぼくが見るとしたら、老人ばかりで、しかも引きこもっているので、その老人さえめったに見ない。そのうちに、姉は、
「病院に戻して! こんなところは耐え切れない! こんなところにずっといるやつはどうかしてる! 病院に戻して!」
 と叫び始めた。何かまずいことが起こったらしい。次の日には再び、ぼくの元には、シーンとした生活が戻って来た。ぼくは台風用の木製窓を開けて換気をすると、空を眺め、そしてつぶやいた。

FAMILYって、FAther! Mather! I Love Youの略ですか?
SILLYって、SISTER! I do Love do Love Youの略ですか?

 歌っているみたいで楽しかった。姉の美しい顔をありありと思い浮かべながら、気持ちを込めてつぶやいた。ぼくがいる場所を中心にして五キロの正円を描いたとしてもそこに人間が百人もいないだろうこのすがすがしさ!

ともみ

 小さい頃はよく一緒に遊んだ近所の同級生の娘が、ぼくが中学三年生のときに、お金持ちの偉い人のところに養女に行ったのを覚えている。名前はともみ、小さ眼ではそれほど特別な美人にも見えなかったし、特殊な才能を持っているという話を聞いたこともなく、ぼくは、養女、つまり或る男、きっと年配の男の実質上の妻として、つまり養女あるいは婚約者として、どのようにみそめられていったのかは知らない。ただぼくらの集落はひどく貧しいところで、ともみの家は、木造が露出してあるほど貧しい家だったので、何か集落にとっていいころにでもなれば、と大人の人たちはよく語っていた。
 翌年、すでに義務教育を終えたぼくもともみも当然のようにして社会へとはばたいた、といっても何かが変わるわけではない。ぼくは外回りの仕事を選んだが、朝の六時には準備を始め、夜の十時にようやく事務所で閉めるといういささかつらいものであったが、ぼくも十五歳になった立派な男である、それでも多くの人たちが部屋の中で、あるいは現場に縛り付けられてカリカリやっている昼間の明るいときにいつも外にいられる開放感ときたらすべての生命をささげてもぼくが欲しかったものだった。ぼくは、ぼくが住んでいる土地の事情について、半年でその土地のどの大人をも超える知識を得たと思う。つまりほとんど天職で呼吸するようにすべての業務が身についた。ある日、そのともみが嫁いでいった家の前に来たとき、だから、信じられないほど高価で豪華な服に身を包んだともみが庭で、巨大なホースを持って、花に水をやっているのを発見したとき、びっくりしてしまった。ともみは十五から十六歳の同級生をはるかに追い抜いた文化的水準と文明的水準で、ぼくらと同じ半年を生き、すでにぼくらから遠く離れたところに存在していた。およそぼくの町では見たことのないような教養的瞳をし、その美しさといったらぼくが本の中でしか知らない単語、つまり令嬢といったものに該当すると思われた。さすがに苦労にやつれて細くなっていたが、すでにぼくの集落の近所の同級生のともみではなくなっているように思われた、そのことをよく覚えている。
 十八から十九歳にもなると、ぼくも責任ある仕事を任されるようになってきて次第に忙しくなってきたし、結婚のことを寝物語の冗談のように考えるような女の子も何人かできたのだが、だからともみの家に仕事で行ったときには実は、自分の周りに比べての成熟ぶりに自信を持っていたぼくは、ともみに会うのが楽しみであった。苦労していないだろうか、慰めてやろう。ところが広い庭先を歩いているうちに鋭い金切り声が聞こえてきたと思ったら、女が誰かを激しく怒っているのである。さらに近づいてみると、十八になったともみは四から五人の大人をあごでこき使っていたのである。つまりもう二年ほどは前になるのであろう、そのときにはすでにともみは大人に当然のように指示や命令を与える立場にいて、いまや当然のように慣れたといった風情で、二百ボルトほどの存在感を持っており、ぼくはともみに類する他の脆弱な十八歳くらいの女を見たことがまったくなかったものだから、肝をつぶしてしまった。無口でいると、
「来たわね? 何を突っ立っているの?」
 とともみがあまりにも速い速度で、つまり早口とぼくには感じられるような速度で話しかけてきたので、ぼくも、
「ぼくのことを覚えていますか?」
 と早口で言った。ともみは、ぼくを軽蔑の眼こでちらりと眺めたかと思うと、もはや十八歳以上のどんな女性にも見たことがないような「微笑み」でぼくに答えてくれた。その日はなにもかも肝をつぶすような経験ばかりで、ぼくは次の日にはすべての友達の女の子とのつきあいを絶ってしまった。すべてが幼稚に思えた。それからぼくはともみと三ヶ月仕事の付き合いをしたが、教育と智慧に充ち、また美と高貴を備えたともみが、ぼくと小さい頃十字架をした同じともみとはとても思えず、毎日々々新鮮な感情が湧き、仕事が終わるころにはぼくはアルコールびたしになっていた。さすがに自重し、さとされもし、自分を本来のレベルで観察ができるようになった頃にはぼくはともみのことをそんなに思い出すことも無くなっていった。
 それでも二十歳ぐらいになると、ともみと夫のたえず続く不仲・喧嘩、要するに夫の浮気などの噂がたえず続いているというのを聞くようになった。ともみが我々同級生を遥かにしのいで身につけた道徳と精神がきっとどんな問題をも解決するさ、とぼくは信じていたが、ぼくと妻が結婚し、実家を三倍の大きさに改築した二年後に、信じられないような報が飛び込んできた。ともみがこの集落に帰ってきたというのである。家の中に閉じこもり、訳の分からないことを言っている。ぼくは急いで集落の若者と二人で、ともみの家に向かうと、すえたような匂いと共に、フラフラしたともみが入り口、その家に入り口があるとすればの話だが、から飛び出してきた。見ると放心状態で、酒か、それに類する薬剤を使用しているらしい。それから今までともみは集落の重荷であり常時監視下に置かれている。生活はかつての夫からのわずかな、この集落の基準からいってもわずかな送金がある。ぼくはほんの小さかったころのぼくとともみの或る瞬間を思い出す。
 水なし池の土手に腰掛けながら、ともみの目は遠くの異国、いや宇宙、いやエデンそのものにまで向けられているように感じた。ともみの口はとめどもなくああしたいこうしたいの夢を紡ぎ続け、こんな言葉があったのを覚えている。
「なんてことないの。たいした奴じゃあなくってさ。そうじゃなくって学校とか人間とかみたいないとんなものに疲れきったときにさ、いつでもわたしが使いすぎている頭をちゃんと理解してその男は飴玉をくれるのよ。あぶらっこいのも好きよ。できればたくさん予備の分も、つまり缶に入ったタイプであげるのもいいけれども、缶に入ったものは一人でこっそり食べるのに取っておいて、やっぱり飴玉をくれるのがいいのよ、つまりいい男よ。よかにせ。わたしが当然のようにハリウッドオスカー女優への階段を上がっているときはね、ものすごい速度で上がるわよ、でも時々障害があって疲れ果てちゃうでしょ? そのときわたしが速度をゆるめるとハァハァ息を切りながらようやく追いついてくる、わたしに追いつけはしないけれども本質的には離されることがない、そんな男、なんてない男なんだけれども…」
 ぼくは燃えるような瞳をともみに捧げていた、五歳だけれど。
「そんな男はいないんだわ、チェッ」

みゆきへ捧ぐ

 多かれ少なかれ魚類なのさ、みんな。
 馬が魚類である程度には。
 猿がみゆきである程度には、
 多かれ少なかれ皆人魚なのさ。

返歌

 およすいた おまえよ 消えよ
 子供が 子供が 消えないよ
 砂の森で遊ぼうよ
 およすいた おまえよ 消えよ

オイディプス父娘

 その父は娘を抱きかかえて現れた。小学生ぐらいの娘の肢体は針金のように細く長く、折れるようだ。父の首にすがりつき離れ、またしがみつき、なだれかかる。まるで一体化したラオコーン像のような一時間の後、父は娘を下ろし、娘の耳をかんだり、耳にステキな言葉をささやいたり、そしてまた娘は父を壁にしたり、父の胸を舐めようとしたりする。
 それが大勢の人が集まる都会の或る場所で、母と妹を待っている間に、ぼくが観察できたすべてだった。いや、それ以上だった。

水浴のあとで

 気分が悪くて吐きそうだ
 まさに孤独だ
 これは雨だ 雨のよな砂だ 血のような海だ
 夕方だ サインをもらった少女だ 雨のよな砂だ
 気分が悪くて吐きそうだ
 病気だって言われてほっとしそうだ
 これは針だ 動物を殺す道具のうちのひとつだ
 これは穴だ 人間を窒息させる洞窟のうちのひとつだ
 これは天使だ 生命を灰と化し絶滅させる存在
 気分が悪くて吐きそうだ
 光だ 光をくれ 光だ やすらぎをくれ
 競争ばかりだ 未来への配慮が絶え間ない
 これは欲望だ 足の裏をくすぐる蟻のように
 これはずれてゆく 手の中に包んだキャンディーのように
 これは地すべりだ へその上に張り付く小動物の種類の
 気分が悪くて吐きそうだ
 まさに孤独だ 雨のよな砂だ 光だ 光をくれ
 まさに天使の孤独だ 熱視線で燃える夢を見た
 まさに穴だ その中にうずくまって息を潜めて敵の通りかかるのを待つための
 気分がひどくて吐きそうだ 息がくさくて死にそうだ 少女の死体の十体の配給 上に座って煙草を吸う そんな十分の休みをくれ
 もはや永劫に許されない欲望ばかりが待っている
 これは穴だ まさに孤独だ ひとりで出し入れしている これは穴だ まさに孤独だ 包まれて安らぎを探そうとするときに人がそこを引き裂くための これは穴だ 競争よ、終われ 出来物がもう百個も出てきて二百八個はつぶした 問題は穴だ つぶした後もそこに残っている穴だ 声をかけてみる 足で潜んでみる 棒で触ってみる 食用の少女二十体の配給 その上に座って月を見る友人のためのお菓子がない 足も手もない 空気をくれ 穴から噴出す おおこれは 光だ
 寂しいこの世の友として人形を買った まさに孤独な満足だ アリだ アリの楽しみだ わたしを祈らせておくれ いやだ もう出て行きたい この世の寂しい友としていったいの人形を買ってみた 長髪で赤ん坊のような かわいい 女の なめらかで つるつるしていて真っ白の 夢のような すべすべで触っているだけで 胸が感動でつぶれるような 一体の人形を買ってみた 生命を灰と化し絶滅する存在
 一体の人形を買ってみた
 まさに孤独だ
 生命を灰と化し絶滅する存在
 血を塗りたくって煙でいぶして土を少量かけて月で照らした十分量の水で洗うこと数ヶ月の人形の
 まさにこれは穴だ
 まさにこれは針だ
 生命を灰と化し絶滅する存在
 一体の人形を買ってみた 雨脚はまだ聞こえてる 血のよなサインだ 少女がもらった 気分が悪くて吐きそうだ
 急いで都の中に入り部屋の外に出てみると月が出ていた

 月が照っていた 足元をアリが歩いている
 冷たい空気だ
 無意識のうちに右手に人形を持っていた
 そのことが無性に悲しかった
 まさに孤独だった
 足は自然と光のほうへと 虫のように 虫けらのように 進む

 そこにいるのは蛍光性のものばかりだ
 まさに穴のような谷だ
 針のような川だ
 そこで水浴をした後に買った一体の人形は
 生命を灰と化し絶滅する存在
 穴から噴出す おお これは 水だ

彼女は「ソムリ」と言い、あの娘は「アウラ」と言った

 かたすかしのような、透明な、透き通った生活。
 美女たちの視線は壁を貫く。
 そしてわたしは天使たちの群れを見る。
 見た、寄ってきた、
「アウラ」
 消えてほどけて白いどっしりとした糸の固まりになり、それはフローリングに音も無く落ちる。
「アウラ」
 かたすかしのよな存在。
 そしてわたしは天使の群れを見る。
 来た、触れた、通り抜けた、
「ソムリ」
 面妖な樹の魔女が汁となって、壁と壁が出会うところからシャワーのように噴出す。
 その冷たいこと。やめてくれ。冷たいから。
「ソムリ」
 そこでわたしは哨兵だった。
 その昔ひとりの熟女を愛した。
 その熟女は折り紙の達人だったが、一日に人間と十分しゃべったらいいほうだった。
 しかもなお毒舌だった。
 だからわたしが彼女を愛せていたどうかは彼女に聞いてくれ。
「アウラ」
 そもそもの始まりは海の生活だった。
 筏と洞穴が日光に照らされている。
 それがわたしの家だった。
 そこへロケットが飛んできた、いやあれはロケットなのか? わたしはロケットを見たときそれを正しくロケットと呼べるのだろうか? もし妙子を、わたしが妙子であることを知らないとき、正しく妙子と呼ぶことができるなら、あれはロケットだったのだ。光が、わたしを捕らえ、愛する筏と海が消えた、それともわたしが消えたのか? わたしはロケットあるいはそれに類する三角錐上の何かの中にいた、走り回って確かめたから間違えない。
「ソムリ」
 とめどもなく走り去る群れ―群れ―群れの中に、息ができないくらいの人いきれの中にわたしはいた。
 頭がどうかなりそうだった。
 ある日、ひとりの熟女を愛した。
 彼女は魔法の手つきで様々な鳥の形を紙で作り上げた。作り上げるたびにゴミ箱に捨てるのだ。わたしは彼女の出すゴミに詳しくなった。しかしこれは別の話だ。彼女は髪が長く、白い飾りを胸によくつけていて、わたしに怒鳴り散らした、わたしは海の匂いがするのだ、わたしは見えない、その海の匂いによって。
 それが次の段階だった、壁の中から潮の香りがするとき彼女はそっと壁に手を触れて、赤い血しぶきと切り刻まれた肉片と共に、壁にのめりこんでいった。もう一度言わせてくれ。彼女は血しぶきを上げながら壁にのめりこんでいったが、それはまたカッターの刃をつけた業務用の扇風機に指先から自ら削り取られて肉片を撒いてゆく白い服の深窓の令嬢のように見えた。たんぱく質の大根おろし。わたしはそのとき海を見た。海の上にたくさんの紙で折られた鳥たちが飛んでいたが、そのうちの一羽として正しい名前を言うことができたのか? わたしはそこのところ疑問に思ってる。
「アウラ」
 太陽が照っていた。考えはすべて消えた。
 太陽が強く、照っていて、考えはすべて消えて、眼に強い光が焼きつけられるのだ。太陽が照っていた。

小学生作文コンクールテスト入賞作品「依存性のない多幸感」捦賞

 依存性のない多幸感があると聞きます。
 依存性のないこととは、また欲しくならないこと、何度も欲しいと言ってがっつかないことであり、また、多幸感とは、しあわせいっぱいのことらしいです。
 そういう薬を作っている(朱ペン先生「栽培している」)おじさんから聞きました。
 つまり、おいしくってきもちよくってしあわせいっぱいになるのに、もう一度ほしくならないと言うのです。そんな幸せがあると言うのです。
 矛盾です。逆説です。ありえないです。訳が分からないので、死んだほうがいいと思います。
 わたしはわあと叫んで耳をふさごうとしましたが、おじさんは、
「あるんよ、あるんだよ、依存性のない多幸感があるんだよ、でももう一度欲しくならないから、みんなが知らないだけなんだよ」
 と逃げるわたしを追いかけてきては、耳元で繰り返しそのようにささやくので、その五回目以降には、おじさんが言うよりも早くわたしの口がそのセリフを勝手につぶやくようになるほどでした。そのような無理やりな智慧を教育と呼ぶのなら、教育と言うものは厳しく苦しいものですが、こんな教育もあるのですか。もちろんわたしは義務教育以外の教育は断固として拒否します。もちろんとりわけ依存性のない多幸感のことなんか知りたくありません。
 ありません…、とあたしは言いました。でも… とあたしの胸の深い直感がささやいてきます。もしかしたらあたしは、もう一度欲しくならないだけで、そんないやらしい楽しみをすでに身体で知っているのかもしれない。そんなふうに思うんです、嘘だと言って。でもあたしがそのことを知ることはないんです。死んだほうがいいですか、いかがですか?
 大人の世界は恐ろしい疑惑に満ちています。

自給自足をしていると…

 或る男が森で自給自足をしていると、特許局の役人と名乗る男が訪ねてきた。
 そして言うには、その男が自給自足するために行っている様々な工夫は、様々な人の発明によっているがゆえ課税の対象となるということだった。
「あなたの生き方、それこそがまさに特許番号五十九番、つまり聖書の次に生まれた発明で、同時に課税対象なのです」
「わたしは何も持っていない。支払えない」
「それでは刑に処せられるということになります」
「何をされるのです?」
「要するに殺されます。今では発明と人頭税は同一視されているのです」
「何だ、それは。第一、その工夫を考えたのはすべてわたしだ。わたしは孤独にひっそりと生きていて利害関係などだれに対してもない」
「そんなことは許されません。第一マザー・メアリーの存在を無視しているじゃないですか? すべてを一体化する光の下で、あなたが物事を一人で考えるのは無理ですし、利害関係をひとりで片付けられると思い上がるのは大変な傲慢ですよ?」
「警句を言おう。何を嫉妬する? 浮気するぼくを? すべてを持っているお方がほんとに嫉妬深いこと」
「ではわたしも警句でお返しします。無能な美女は存在するだけで価値がある。それがゆえ、美しく無能な妻こそ、いや無能な妻だけを、ただ人は愛するだけでなく愛し続けることができる」

寝てもさめても楽しの夢や?

 寝てもさめても楽しのうたや。
 寝てもさめても楽しの夢や。

 自分の歌う歌ばかり聴いて
 自分の踊る踊りばかり見て

 楽しのうたや? 楽しの夢や?

 薬の作る楽しのうたや。薬のかもす楽しの夢や。

「おっちゃんはだかやで? ねえちゃんみてるで?」

 楽しの夢や? 楽しの夢や?

「かあちゃんみてるけ? とおちゃんみてるけ? ああ」

 薬の楽しの作るのうたや?
 薬の悲しのかもすの夢や?


 ぼくのかみさまにも姉ちゃんみたいに六つの指があればいいのに
 ぼくの妹にも姉ちゃんみたいに三つの腕があればいいのに
 りりりん おいでよ 楽しのうたや
 りりりん おいでよ 悲しのゆめや
 六つの指がいいな たまらねえや 六つの指や?
 三つの腕がいいな たまらねえや ぎゅっと抱いてよ、りりりん。
 きみみたいに十八の指があればステキだな、数え間違えていたらすまん。
 ぼくの妻も家族も友達もきみみたいにすてきじゃない、なに普通だよ。指が六本あるわけじゃないし、腕が三本あるわけじゃない。だから、ぼくはきみに、お金を払うんだ。

 寝ても冷めても楽しのうたや?
 寝ても冷めても楽しの夢や?

少女のような女たちに囲まれている

 少女のような女たちに囲まれている。ひどい誘惑だ。ほとんど少女のような女たちが後宮にはたくさんいるのだ。クレオパトラの王宮も、わが楊貴妃の後宮ほど、ひどいことはなかっただろう。三人ほどわたしには気にかかる女がいて、わたしの定義によれば、抑鬱弱体化による誘惑、いわば「傷ついたわたしをなぐさめて」をわたしに引き起こす。その誘惑は、わたしが宦官であることを突き抜けて、わたしを堕落させる。この力は、アフガニスタンでは様々なカリフをしてハーレムを構成させたものと同じであろう。いわば所有に近いフェティッシュであり、家に置いておきたい魅力である。一眼で男の眼に自分の姿が焼きつくように、何世代もの歴史を通じて彼女らの顔や身体は形を変えてきて、洗練されており、様々な凹凸で飾られて、智慧や戦闘心や勇気を完全に役に立たなくさせる動きを身体の各部分が行い、その顔の各部分の動きをたとえ忘れようとおもっても、その形や動きは、積極的に男の記憶の中に鈎爪で自分の場所を確保し、そしてまた、自分がその男の前にいないときにすらその爪はときどき血を流す。およそ百人に一人ぐらいの割合でその種類の女が目立たないようにすべての男の記憶や欲望をかき乱しながら、エネルギーを放散させて歩くのを見つける作業から始まる。専門の役人が彼女を引き取ることを家族に申し出る。あるいは、町を出て、いろいろなところをさ迷い歩いてハーレムに集まってくる少女たち。彼女らはおとなしくて話すこともできない顔をしている。もう殴られたような顔をしている。しかし彼女たちが歩いた足跡の分だけ家庭は壊され、若い理性は堕落しているのだ。その他の女たちは、彼女たちが存在してしまったからには、一体どうすればいいのであろう? ところが逆に、男をかき乱しはしない多数の女のほうが世間で生きてゆくのである。その特殊な女たちはそうしてハーレムに集まってくる。つまり世間で生きてゆくことがとてもできないので自分が持つ唯一の財産を無意識のよりどころとしていつのまにかここにたどり着く。生存を犠牲にして美しくなった特殊体の美女たちは実際、自分の居場所がこの世界には全然ないことを知るであろう。なぜならいかなる天才の場合でも能力者の場合でも、そして美女の場合でも、すべての少数派に対しては世界は前もって用意された居場所を用意しないからである。こうして人々の前から少数者たちは急速に消えてゆくのだ。町で一番の美女の消息ほど思い出せないものはない。そうした小数の美女たちの一部が集まってくるのがわたしが暮らしているハーレムであるが、そうであるから、彼女たちは生存をあきらめている。生存をあきらめているがゆえに、毎日が命がけであり、上位の女官との女同士の恋は、常に二人以上の殺害の結果に終わる。そうした少女たちがわたしを絶え間なく誘惑している。
 わたしに対する女性の誘惑はそれだけではない。たとえば肌の露出や足の形、多種多様な胸の質感や形状などもまたわたしを苦しめるのだ。問題はそこにいかなる飾り気もないことであり、そのために若い少女たちのちょうど狂おしい匂いがぷんぷんしている。問題はさらにそういった少女たちがたくさんおり、そのような単純な量の拡大がなかなか以外と厄介であり、わたしはそれらの欲望を遮断するのにひどく苦労するのだ。
 実はそうしたことは町でも起こるのだ。近頃なぜかそうした欲望を感じるのは、模倣欲が強く働いているからだろう。つまり若々しい、恋に充ちた少女たちの、むせりかえるような性欲と恋の中で生活し続けているわたしにはもはや様々な男や女から発せられる性欲の流れを視覚化して肌で感じ取ることができるほどである。つまり年をとればそれなりに偽装したり抑えたりすることができるようになる性欲の受動態や能動態がここでは抑えられることを知らずに現れては消えてゆく。ところが我々はその欲望を一歩進めることすら許されておらず、途方に暮れたまま、互いの顔を眺めてはため息をつくのだ。こうしてわたしたちの一部は政治に慰みを覚え、その更に一部は文学に慰みを見出す。しかし、その政治は、ハーレムの女たちの性的権力闘争の単なる模倣の影にすぎず、そしてまた文学は彼女たちが愛する年下・年上の女性に書く愛の手紙の情念の薄まった形態に過ぎないのだ。

幼児偽制

 ある女たちは、顔をもはや童女のごとく幼児化させ、エネルギーを節約することによって異性をひきつけて生きてゆく。わたしはその生き方を幼児偽制と呼んでいる。頭が大きいこと、脳が大きいこと。幼児性、つきでた口唇、ひろいおでこ。つるつるであること、ざらざらしていないこと。眼の大きいこと。丸っこくてふわふわしており脂肪があること。
 その顔は単なる表情のいくつかの単位の組み合わせに過ぎない。多くの場合彼女らは発音できる口さえ持っていないことさえある。つまり顔を幼児化に特化するあまりに頤が欠けてしまったのだ。あるいは、その他の機能的部分が。その他にも、表情の機能が衰退し、笑顔だけがずっと張り付いていたり、二・三のパターンによる反応の繰り返しであったりする。その顔が、まるで独立した生命であるかのように胴体に張り付いているが騙されてはならない。実はその胴体こそが彼女たちの本体なのだ。その胴体はさらに簡約化されており、ひょろりとした体格が多く、あるいはほとんど注意されないように省略されてある。その幼女に偽装された顔の微笑みだけで世の中をやりくりし行き抜き、それ以外のエネルギーを節約し、省いてしまうことによってもはや彼女は女と言えども別の生き物のように見える。もちろんそれは見分け方を教わっているものにとってのみであるが。
 その顔にひきつけられた異性が結合した後に、その他のパーツが以下に簡素に造られており、多様性に欠けるかを知るであろう。その造りはずさんであり、張りぼての身体であるとすら言えるかもしれない。しかしそれはそれでかまわない。だからこの幼児偽制という生態は存在してきたし、存在し続けるだろう。
 このような不感症的表皮の発達はむしろ進化の高等技術に属しさえするのだ。
 げにおそろしきはその胴体よ。たこの吸盤のごとく、すっぽんの口のごとく、一度接着した獲物を離すことがない。またその目的に特化された本能が肥大化していることでその目的をよりよく果たすように作られているのである。

詩 二匹のメス豚の物語(彼女らはひどく匂った)

 おお 死にたい死にたい ねぇ いっしょに飛ぼうよ
 死にたいでしょ? だったらいっしょに飛ぼうよ ねぇ もうやめなよ
 むだだって 何してんの? むだだって 死にたいでしょ?
 だから いっしょに飛ぼうよ
 この世は一瞬の夢 あの世は虚無の墓石
 だから飛ぼうよ ひとりじゃこわいから
 だからいっしょに飛ぼうよ ひとりじゃこわいから
 おお 死にたいでしょ? いつも言ってるじゃん
 あたしもそう思う ねぇ むだだって そんなんやっても
 だから飛ぼうよ いっしょに ひとりじゃこわいから
 だから一緒に飛ぼうよ あと一段 ほら、下を見て 今だ。

最後のインディアン

 最後のインディアンが息を引き取ったとき、インディアンの差別を罰する法律ができた。インディアンの村が朽ちてなくなろうとしていたとき、議席の十個をインデアンのために確保する法律ができた。インディアンの残した品物がほとんど見られなくなって五年経った後、インディアンのための専門の居住地ができた。最後のインディアンが息を引き取った百五十年後、インディアンの独立を認める法律が議院を通過して、インディアンは一民族としてのアイデンティティを獲得した。

ある友情

 あるとき、Yとご飯を食べていたとき、ぼくはYに物事の真相を捉えるのがいかに難しいかについての話をでっちあげていた。その返礼なのかなんなのか、いきなりYが話し始めたのが次の話であった。
 かつて仲のよい友人二人がいた。どんなことについても互いに話し合い、互いに知らないことは何一つとしてないほどだった。二人は政治または文化の方面の道を志し、努力していたが、その努力は実ることはなく、成功は訪れる気配もなかった。しかし二人はそれでも幸福であった。ある日、片方のうちの一人が死んでしまった、そのところに、国の役人がやってきて、
「あなたの今までの仕事を国が認め、是非社会全体のため、国家のためにあなたの力を借りたいと思いやってきました」
 といって、高官になることを約束し、ぜひそうするべきことをお願いするのだった。しかし、男は答えた。
「わたしはわたしの仕事を本当に理解できるただ一人の人間を失いました。もうわたしにはその仕事を続けてゆく目標も意味もありません。わたしは自分の仕事でただ一人感心させたい一人の人間を先ほど失ったばかりなのです」
 そういって男は説得に応じることはなく、家族からも離れて、ほとんど何をすることもなく生計だけは何とか立てながらそれから後三年生きたが、その後、亡くなった。
 ぼくはYのその話を聞いたとき、ぼくが完全に間違っていたことが分かって恥ずかしくなって、黙り込んでしまった。

 Tはだれとも文字の使い方が同じではない。Tは後ろから難渋に苦しむ性だ。Tはハープシコードを弾くことを覚える前に過去を知ることはない。ひどくかすれていてみすぼらしい、血を蒸留させて何度も塗りたくったようなそんな過去を。Tは愛を知る前に、いわゆる血の世間が一体どのような手段で彼を手なずかせていたかを知ったことは一度もない。血を蒸留させて何度も塗りたくったようなそんな手段を。Tは酒を知る前に、自らがどのような、かたいに囲まれて身動きが取れなくなっているかを知ることは一度もない。ひどくかすれていてみすぼらしい、血を蒸留させて何度も塗りたくったようなそんなに。Tよ。

Kさんからのおふれ

 KはかつてY校で男たちに5千円で春を売っていた。
 夏のある日、授業中に漫画「ちんゆうき」を読んでいたとき、次のような紙が回ってきた。
 Kの利用について(Kより)

1、挿入・挿出時間は必ず厳守すること。性則を守るべし。特に時間は大切。時間にルーズなものはセックスを許されない。また、合図と同時に、「勃起、気をつけ、礼」の号令でセックスを始めること。またそして、「三分前の股間の洗浄」「一分前の着床完了」を心がけること。セックスは常に時間との競争。行動はすばやく行うこと。

2、セックス中での私語・筆談・居眠り、携帯電話及び音楽機器の使用・操作を一切禁止する。(時計代わりに携帯電話を腹部に出すことはできません。)

3、わたしへの質問以外のセックス時間中の挿出・離穴はこれを罰し、また同時に禁止する。やむなく中断する場合は、金額の追加あるいはマネージャーの許可を得ること。

4、寝室に、またそれに準ずる場所に荷物を置いたままのセックスや外出は認めない。その場合には荷物を撤去する。自分ひとりの寝室でもわたしでもない。マナーを守って使用すること。

5、寝室、あるいはそれに準ずる場所を退出するために脱穴する際、腹の上の鼻紙のくずや消しゴムのかす、漫画の断片や写真、ごみ類は自分で回収し、ゴミ箱に捨てること。次の人が気持ちよくセックスできるようにしよう。

6、始めた性行為は終わらせなければならない。

7、他の異性との同衾の禁止は、性行為のための必須条件。セックスできる環境を守るべし。他の異性の部屋や友人の部屋への入室を禁止する。入室したものも入室させたものも処分の対象とします。

8、団体セックスの基本は他人を思いやる気持ちを持つことである。
①団体セックスは、自宅でセックスするのとは勝手が違うのが当たり前。常に周囲に気を配ること。
②些細な言動で他人を傷つけることを知るべし。自分勝手は通用しない。
③皆が同じくセックスしている。虚勢を張る必要はない。肩の力を抜いて行為に当たるべし。

9、セックスは明るく元気が一番。明るいものは必ず絶頂へと達します。プラス思考が快楽を呼ぶ。大きな声で挨拶することが一番である。「こんにちは」「よろしくおねがいします」「いただきます」「ありがとうございました」等気持ちよく挨拶すべし。

10、スランプ、それに準ずる困難に陥ったときは写真を用いてもかまわない。

人魚の前での懺悔

 深みの泡からTがはいだす
 血のような心 こころの血だ 吐いた植物
 鉄がまるで腹から抉り出させるようなあの鈍い痛みが
 わたしに 妻としての 教えを 教えを 師を 妻として 師を
 深みの泡から錆びたアルミの師を
 愛する人のために わたしは
 さびを止めることの出来る魔法を欲する。
 美しく気高い 黄色い胆汁のなかで
 つねにあぶれた肌とくびれへの流れから
 多くの不協和と断絶をなくしましょう
 つるつるぺたぺたまあるくありたいのです
 すべすべつるつるぺたぺたまあるくありたいので
 そうあるために自然に反してまで魔法を
 愛する人のために 教えを 師よ 我に非―人間を 非―女を
 つるつるぺたぺたまあるくすべすべの非―少女を授けたまえ 深みの泡の中の消えた恋人よ
 海の中に落ちた空想の中の魚よ
 おまえは徹底していた 尊敬するぜ
 わたしを弟子にしておくれ
 おお、だからあたしはいつも、だれの中にも入り込めなんだ。あたしと同じ海、同じプールに漬かっている人さえいないんだ。だとすればまったく途方もないわ。

ぼくの小さな妻は

 ぼくの小さな妻は―まだほんのたったの十三歳ですが―黒板けしとにらめっこしても負けるほど知能が足りません。まだ物質ならいいですが、猫などの動物とにらめっこするなら目を回します。ふらふら、よれよれとよたれかかってきて、ぼくの肩でようやくいきをつくのです。もしも人間とにらめっこしたらどうでしょう? もはや妻は人間を見ることができません。突如かっと眼を見開き、恐怖で目がピンク色に染まったかのように見えると、何かが千切れる音がして、何もなかった、何もいなかったかのようにして、飲み屋の玄関の上でシャボン玉を吹いているのです。

母さんへ

 夫を失って初めての仕事に行く妻が、車を路肩にとめて休んでいるときに、ふと気づいて電話の録音機能を再生した。
…「母さん、こちらはともやです、ぼくらは母さんにいわなくちゃいけないこと、あー、いわゆる、知らせたいことがあります…ぼくらみんな母さんのことが大好きだよ。ぼくらは父さんを失って悲しくてつらい、けれどもそしてなおいっそう母さんがそのことでどんなにか悲しんでいるかを知ってます。でも大丈夫だよ、ね、そうじゃない? …お母さん、さとしだよ、運転気をつけてね。どうかお願いだから。ぼくらは今実は食事の準備をしています。母さんが戻ってきたら食べようとおもって。あー、母さんが戻ってきたら食べようとおもって。無事に帰ってきてね。お母さん、とよしです、父さんは今かあさんの隣にきっと座っています、だってそうじゃない? ぼくには分かってる。父さんはそんな人だったじゃない? だから父さんにぼくからよろしく言っておいてね。ぼくらはあなたのことが大好きです、母さんへ」

(センター試験用朝テストより、抜粋)

勤労少女十一歳

 …わたしはお父さんのために三年間も地下で働いています。お父さんは朝の二時にわたしを地下の下のほうに下ろし、翌日の午後の一時か二時にわたしはあがってきます。そして、あしたの朝すぐに仕事にいけるように、夜の六時に寝ます。わたしが入る炭鉱の部分は、入り組んでいて蟻の巣のようになっているだけでなく、鉱層がまるで刃のようになっています。わたしは石炭を背負って、脚立ないしはしごを四つのぼり、やっと炭鉱の端に通じている主坑道にでます。わたしの仕事量は、桶に四から五杯で、桶には四と四の四分の一の百倍の重さだけ入ります。わたしは二十往復で桶をひとつ一杯にします。命令どおりにやれなかったときはムチでぶたれます。身体はきついですが、父さんに見捨てられるのがこわくって、楽なふうに仕事をやろうとするとき、自分をいつも戒めます。戒めるといってもイエス様に祈りを上げたり、マリア様に力をもらったりします。父さんのことが大好きです。すごく優しいので一生一緒に暮らして、大人になればちっちゃな父さんの支えになることがわたしの夢です。上のほうに上がっているときには、大体家族の人たちがいないので、ゆっくり休むことができます。弟がいるときには、いつも弟は怪我をしたり、心が不安定になっているので、ずっとついていなければなりません。ひとりでいるときは、壁に背中をついて半分眠りに入りながらもっと楽な生活のことを考えているときがわたしの一番の幸せで、そんなときに父さんが家にいてくれたら、なみだがでるほど嬉しく感じて、おかしいと思われたこともあったほどでした。父さんは、
「明日があるんだ、きちんと意識を失って、眠るんだぞ」
 といってくれます。わたしは自分の家族の人たちほど優しい人たちを見たことも聞いたこともないのでそのことを考えるだけで涙を流してしまいます。家族のことが大好きで、もっと心が強くなったら、自分のすべてを犠牲にしてでも家族のためにつくすようになれたら、と祈っています。でもまだまだわたしのこころは邪悪な怠惰に充ちていますので、倒れたり耐え切れなくなって眠ったりすることがよくあるのが、とてもつらいです。…

(世界史図説資料集より抜粋)