2010年4月19日月曜日

さなえ

 おそらくその女と付き合ったり、結婚を考え望んだりすることはない、実は親しくもしたくない、親しくできるとは思わないんだ、むしろ。一緒にいたら楽しくないだろうな、ノリが違う、と思う。でも分かって欲しい。さなえ、その女はさなえという名なんだが、ぼくに異常な魅力を持っていて、手足の一挙主一挙動がぼくを引き裂くように誘惑してくる、その顔の形、無力な表情、高くてはっきりとした鼻立ち、うすくて小さな唇、ひとえの大きなつぶらな瞳、小ぶりだが決して小さくはないしっかりふくらんで肩の下からバランスよく配置された双球の胸、ちぎれそうな腰、そのすべてがやばいんだ、そんな異性がいる、そしてその異性に、いやその種の女性に対する執着は生涯に渡るのだろう。いっそ人形や奴隷、あるいは奴隷人形やその他の玩具として所有できたら何とすがすがしいことだろう。ぼくはこうしたたくさんの愛を持ち、一緒にいて大切にして結婚するに至るようなまともな愛着とはまったく別に、それを自分の大切な一部分として持っているんだ。フェティシズム? 何の話だ? ああ、さなえだ、さなえの話だった。足首から首の付け根、うなじまでさなえは完璧だった。そのことはだれでも認めた。だれでもといっても中学・高校の話だよ? だれが美人かと言えば多分三番ぐらいには入るんだ、だがしかし、だれも近寄れない、美しすぎるからではない。そうではなくて一緒にいても楽しくない、絶望的にノリが違うということが分かるんだ。天然パーマの不細工の女がさなえの唯一の友達だった。二人でひそひそ小さな声で話しているのをぼくはよくじっと見ていたものさ。そればかりか何度かは罰ゲームを装って話しかけたものだった。しかし彼女が返事を返せたことは一度もないよ。返事の仕方を知らないんだ。あんなに無駄な美しさは見たことがなく、存在することもあるまい。そこでぼくは始めたさ、つまりいじめをさ。もう四年も前の話さ、別にかまわないだろう? それからはさ、すごい萌えさ。萌え萌えだよ。ぼくはさ、何も足首が好きなわけじゃないさ、分かってそこんとこ。でも、さなえのスリッパと靴下を盗んだときには泣いたよ。内側に足首が少しそねっている畸形が、裸足ですこし色が黒ずんでて、すんごく綺麗。
「先生、わたしなくしたんです」
 訊かれもしないのに来る先生ごとに説明している。そんなことよりぼくにはさなえの足のくびれの部分が腫れ上がっているように膨れた球形をしていることにほとんど半日も夢中であった。あの足は、童顔の熟女の母親が実は自分のほんとうの妹ではなかったことを知って流した涙よりも萌え深い。ぼくはいよいよさなえの肉の形体について魔術にかかったかのようにして執着を深めていったのである。それは決してさなえの人格や心に対する興味ではないことはぼくをむしろ苦しめたほどだった。乙女とは、恋と性についての想像の技術と作法を身につけた女のことを言うが、ちょうど中学から高校の初年度に女子らは乙女になるか、乙女の状態を一度経過する、ところがさなえが彼女の友人にこう強弁していたときほど激しく萎えたことは、壁に身体を何度もぶつけたとしても、かつてないままに終わるであろう事を覚えている。
「わたしもう少女なのじゃなく乙女なのよ」
 そのときのさなえの存在ほどうざかったものはこれからもこの宇宙に存在しないで時は過ぎ去るであろう。ぼくはそれを聞いて、お前のような女の自己主張ほどどうでもよいものもない、と思った。世の中にはその美しさのためにはけっして自己主張してはいけない女がいるものだ。同時に、その種類の女は自己や人格にも無縁でなければならない。そのときに彼女の美の関数は最大値をとるのだが、まさにさなえはその種の女だった。であるからぼくはますますさなえの意思を超えた実験をすることによってさなえを消費する必要を感じるようになっていくのだった。ぼくのその実験的ないじめはまさに彼女を困惑させた、その困惑こそが、彼女の自己に対する確信を失わしめて、ますますさなえを美しくいったのだ。たとえばあるときは、ぼくは、いじめられっ子でさえない男子の教科書とさなえの数学の教科書とを交換しておいた。それでどんな反応をするのか見ようという魂胆さ。まずかばんから教科書を取り出したときのさなえの表情よ。ぼくの身体の下半分は萌えのあまりに震えだして心臓が今までにない電気で動くのを感じたほどだ。ぼくはあのときのさなえの表情だけでごはんが三杯は頂けるが、いやもっと言えば、さなえが授業中ずっと差別的な作戦を練りながらじっと動かずに放心しているのを見、また休み時間になったらトイレに行く振りをしてその男子のかばんの中にぞんざいに投げるように、しかし音もなく誰にもけっして気づかれることもない、修行者が三週間目で会得する無心のさりげなさで、するりと入れたときのさなえの冷たい表情なら苦手なピーマンも五つは生でいける。さなえが受けた撹乱はそれだけではない。ノートにはいつの間にか卑猥な写真がはさまれていたり、自転車のサドルが三回も別のものに入れ替わったりする。もちろんそのサドルは今でもぼくが持ってるさ。そればかりか、とても彼女には解けそうもない数学の章末演習問題Bの中の特別技巧的な一問が、まごうことなき「彼女の筆跡」でノートに書かれているのを見たときのさなえの口の金魚運動の生半可ではない萌え波動よ。そのときのためばかりではないが、ぼくは、さなえに関しては、筆跡・文字、絵、声に関して、完全に形態模写・模倣することができたのだから、その事実によってさなえの生が受けた巨大な、右や左への変化は、口で表現できないほどだった。さなえの実家でも同じような変化が起こっていた。机に置いていたものはテレビの上に見つかる、そのようなものばかりではない。散らかったり、片付いたりの周期は規則的にナイル川近辺の天候に似た形で繰り返され、また物は増えたり減ったり消えたりするのさ。さなえはひとりになったとき、歯軋りしてくやしがり、訳も分からず髪をかきむしったり、わめいたり、およそ少女の口から出るとは想像することもできない呪いの言葉を吐いたりし、泣き出すのだが、そのときほどぼくの胸が締め付けられてキューと苦しく、あわれで、かわいそうで気の毒に思い、同情したことは、ぼくの人生でかつてない。わけも分からず怒り出した友人にのけ者にされて疎外感を覚えているさなえ。物事が自分の思い通りに進まない卑小さに震えているさなえ。虫の動きや自分の知的操作(推論)の見事さによって、ああこれがそうなのか、と豆電球がついているさなえ。次々と不遇の死を遂げる飼い猫や飼い犬などの意味もなく訪れる突然の死や悲惨な事故によってとても大切なものを失って心の中にぽっかりと穴が開いたような空虚さの中にいるさなえ。どのさなえもわたしの全身の穴からの萌え汁でわたしの鋭敏な受容体を充たさなかったさなえはどのさなえにもいなかった。ぼくはさなえに対して罪の気持ちを持ちなにをしてやれない気持ちさえ感じた、そしてそんなときはさなえもまた怪訝そうな顔で自分の人生を見つめるのさ。そしてそんな表情でぼくはめしを何杯も食べれるのだ。ぼくとさなえの間にはいかなる親密さもなく、いかなる言葉も交わされることも交わすこともなく、それなのに、どんな家族よりも恋人よりも妻よりも深くつながっていた、だからぼくは、学校制度がさなえとぼくを引き離すということを知ったとき、正直言ってショックを受けた。そしてそのショックで放心しているとそのうちに身体が震えてきた。ぼくはもうあの、棒でめくられた背中とも、ぶつかって露出したお腹とも、たまらずめくりあげられた二の腕とも、ひとりだけの私服とも関係のない生を送るんだ! それこそが男のまともな道というものさ! ところがどっこい、世の中には第二のさなえ、第三のさなえがいて、無限に存在する種族を構成して散らばり、機を見てぼくの目の前に飛び出そうと待ち構えているんだ! おおさなえよ、おまえはぼくにおまえたちを教えてくれた…

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