およそ数年間も勤めているのにそんな時間に気づいたこともなかった。しかし最近、二時ごろから数十分、奇妙な静けさと共に或る女と共に事務所に取り残されるのだ。その女はめだたない、およそしゃべることのない暗い女であるが、よくよく見ればこれまたはっとさせるほど美しい。しかしどことなく男、いや人類を拒否していてその内面を遮断している雰囲気で、実に冷淡な感じである。無駄なこと以外はしゃべりませんわという顔をして業務を続けている。その業務の仕方がまた独特である。およそわたしはこんなに遅い事務処理を見たことがない。いや正確に言えばわたしは誰かの事務処理の速さなど比べたこともないのだが、極めてそれはゆっくりと行われているように見える。しかしそのゆっくりさは一種執拗であり、まるで夫にヒ素を盛るときのような正確さと持続力を兼ね備えている。そんな女がいるとは今まで気にしたことがなかったのだが、あまりにも気になるのでちらちらと眺め、誰もいなく、つまりその女と二人きりになったときには、仕事の手を休めてずっとその女を観察している。そのわたしの視線に気づいているのかいないのか、きわめて冷淡で拒否的な素振りである。とにかくしゃべりかけてこないでくださいという空気が漂っているのだが、もしもわたしが眺めているのに気づいていないのなら、これは相当な努力である。より正確に言えば、わたしはえりかと、つまり彼女としばしば言葉を交わしている。多くの場合業務上のやり取りだが、そうでない場合もある。つまり
「あついなあ、ちょっとあつくない?」
「あついですね」
の類である。
「こういう日にはビールが飲みたいのだ」
そんなことを言ってみると、お笑い芸人がやるようなあの表情、つまりなぜこの人はそんなことを言ったのか、何に反応したのかをちらりと眺めて確認する無表情な顔をしたかと思うと、お話は終わりですね、といわんばかりにデスクに眼を戻すのだ。それがわたしを嫌っている素振りならまだいいのだが、そうではない、彼女はまさに話が終わったので業務を再開したのだということがわたしには分かってしまうのである。つまり彼女えりかはそういう無駄のない、隙きのない女なのだ。調べてみても浮いた話のひとつもなく、趣味も休日の過ごし方も知られていない。知られていないのは問題だ、職場の協調性に反する、是非わたしが問い質そう、そう啖呵をきったのはいいが、きわめて隙きがない、つまり武道家が熟練と修行の最後に行き着くといわれる徒手空拳のフリースタイル、いわばかまえ無きかまえ、彼女の沈黙の姿態はその領域にまで達しており、どこからどんな話題を話しかけようともわたしはきっとぐさりと刺されてしまうだろうということが分かる。何を刺してくるのかは分からないが、何かが来るであろう。それは言葉ではあるまい。暴力でももちろんないし、何らかの一発芸でもありえない。
「あは! ○×さん、おっかしい!」
なんてことは絶対ありえないのだ。しかしわたしは自分の特有の粘着質を発揮して、えりかが恋人らしき男と歩いているのを目撃することができた。それは大柄で筋肉質の男であり、わたしが寝てもおかしくはない、なかなかハンサムである。それにしてもえりかは何と美しいのだろう。まさか外で見るとこんなに美しいとは思わなんだ。そうして眺めていると二人はまったく言葉を交わさない。次の角でも次の店でもずっと言葉を交わさず、触れ合うことさえない。いや正確に言うと何度か
「トイレ行っていい?」
というささやきはあった、あったはずだ。しかしそれ以外の言葉も身体接触もなく彼女は部屋のドアを閉め、わたしは彼女のマンションの場所を知ってしまった。こうなったらわたしにもイニシアチブがある。わたしは、
「ねぇ、えりかさん、きみ、この前彼氏と歩いていたでしょう?」
と「えぇ!? なんで知っているんですか、主任?」などといった返答を期待することを微塵もすることもなく話しかけた。えりかはゆっくりとわたしの足元から胸、胸から顔というように眺めあげたが、そこには独特の冷淡な軽蔑が宿っていた。
「いいえ、違います」
とえりかは答える。
「もしよかったら証明してみましょうか?」
驚くべきことにえりかのほうからわたしに接近してきた。まるで数ヶ月わたしを何らかの策に陥れようという作戦を今確実にゆっくりと真綿で首を絞めるように実行し始めたかのような確信に充ちている。逆にわたしのほうが戸惑い、
「い、いったいどうやって証明するんだ?」
と言うと、えりかはこう答えた。
「わたしがちょうどその男と歩いたようにあなたと歩いてみることによって、またかつ、あなたをわたしの部屋に、条件によっては、案内することによってです」
わたしの眼がキラリと輝いた。
「えりか、きみは実はすごく美しい顔立ちをしているね」
えりかはこういう。
「そんなことは重要ではありません。目下のところ、わたしたちの義務は手をつないであるくことです」
わっと就業時間が終わり、外に出て、或る程度道なりに進んだわたしの右手にスルリとえりかの手がすべりこんできた。と思うとその手はわたしを押しのけて一定の距離に保つと、彼女は、
「じゃあ、わたしの歩くほうへとちょうど歩くようにするのです」
といった。えりかとわたしは恐らくえりかにしか分からない必要性があって、さまざまなところを歩き回って、太陽も沈みかけてきて、わたしはほとほと疲れ果ててしまった。だからえりかが
「ここがわたしの家です」
といったとき、わたしは間違って、
「知っている、前に来たことがあるんだ」
と答えてしまった。それを無視してえりかは、
「テーブルの上にすでにあたたかい紅茶があります。それを飲んで下さい」
といった。そして廊下の向こうへと消えた。わたしは何とか紅茶のあるテーブルについて五分かけて紅茶を飲み、五分かけて煙草を吸っていいか考え、五分かけて煙草を吸った。そして立ち上がると、
「えりか! えりか! いったいどこへ行ったんだ? おれをどうするつもりだ? えりか!」
と叫んだ。そして部屋中を探し回り、ドアからドアへ窓から窓へ移ったが、えりかを見つけることができなかった。と、目の前の水飲み場に彼女がいるじゃないか。
「えりか! どういうつもりだ? どうして返事をしないんだ。何度叫んだと思ってる?」
えりかは何ともないように答えた。
「しましたよ、返事。何度も」きこえませんでしたか、すみません、
それは言ったか言わなかったのか。わたしは怒りにまかせてえりかの腰を抱いて、そのまま押し倒し、抜け出そうとする足を上から押さえ込んだ。そのときえりかの眼こには低級なものにたいする哀れみのようなものと距離の感情、軽蔑の情がその無表情さにもかかわらず、はっきりと現れているように思われた。えりかの顔立ちは、凹凸は少ない緩やかな平面状の美人系であり、きわめて蠱惑的に点灯した。
「おれはずっと見ていたぞ。えりか。太陽が最もまぶしくなるときちょうどおまえとおれはひとりになる。そのときおれはずっと仕事もせずにおまえを眺めていた」
えりかは少々バタバタと手足を虫のように動かしたが、そのうちにタオルのように大の字になっておとなしくなった。カーディガンがイラン風のミニアチュール模様を床の上に正方形に、われわれ男と女それぞれの民族の歴史と共に、正方形に広く広げていった。えりかはわたしの言葉に答え、こういった。
「そんなの始めて知りました。でもどいてください」
わたしは、えりかの腹をつかんで、その美しい顔に近づこうとしたが、途中でやめて、
「悪かった。もうわたしは戻ろう」
といった。
「出来事も家も忘れる。えりか、おまえの虎の腹のようなお腹の手触りも、近づいたときのむせるような匂いも、すべて忘れる」
そう言って、わたしはテーブルのところの煙草を取って戻ろうとした。そのときわたしはえりかのほうを顧みようとしたが、再びいなくなっていた。
「えりか! どこ行った? おれは戻るぞ!」
わたしはそう叫んで、耳を凝らして返事をききとろうとしたが、ついぞききとることはできなかった。わたしはまた、本棚の上にあるピラミッドの置物を取ってポケットに入れて、外に出ると真っ黒だった。えりかの気配はその闇からも、またマンションの内部からも完全に消え去っていた。
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