その名も太陽王子。どちらかというと、仏陀的個性。彼は放浪生活を送っている。
あるとき、高い山に登り、息を吐き、疲れ果てながら、下々ではテプイと呼ばれる人智の及ばぬ地帯に足を踏み入れたときがあった。
王子が、旅の一時的な疲労を緩衝させようと、風の通らない涼しい岩陰で休んでいると、自分に気付いていない一本の食虫草を遠目に見つけた。顔を上げて立ち上がると、いつのまにか、木漏れ日が直射に変わっており、王子は、姿勢をもっと楽に変えて座りなおすと、再び、じっと、食虫植物を見つめ続けたのだが、その観察は次のようであった。その植物は、じっと、動かずに、何を意図する様子も、緊張をみなぎらせている様子もない。むしろ、小さな草花、しかも人間に飼われた植物のように、ただひらひらと舞い、醜い食胞を他の花のようにおしゃれなつもりで振り回す。その様子を見るに、気取ろうとしても気取れない、非常に無力な様子であり、戯れに匂いを振りまいてみるものの、それもいっかな堂に入っていない。毒々しくはしているが、どうも見当はずれなほどに無能力な様子なのである。虫の類が、花の匂いがしたとやってきても、食虫植物と分かると、腹立ち紛れに身をくねらせて、去っていく。鳥も蜂もがっかりさせられ通しなので、通り過ぎていくだけである。観察しているうちに、その毒毒しい身なりも、ただの窓際社員の無愛想に過ぎないのではなかろうか、と思われてくる。王子は、特にそれを哀れだとは思わなかったが、かえって好奇心をそそられたようで、その生命の不思議を、すなわち、その生存の現在までの存続と、今の実態に思いを馳せ、その観想の悦に浸るのであった。と、そのとき、一匹の虫が罠の匂いにふいに惹きつけられて、袋に落ちた。王子は、その瞬間があまりにも、意想外で、興趣を感じたので、岩陰を駆け出して食虫植物に向かってこう話しかけた。
「きみは、どうして、単なる草に過ぎないのに、虫を誘い出し、それを食べるのだね。その虫を食べなくても、土の養分だけでやっていけないのかね。それとも、この枯れた地にはそれだけのものが無いのかね。それとも、君が、下手なのかね。どうして、虫なしで細々とやっていけないのかね」
食虫植物は、自分の誇りを傷つけられて、むっとして、こう言った。
「あなたは何を言っているのだ。これは一つのやり方なのだ。生き物はそれぞれ一つのやり方にしたがって生きている。それがないのに生きているあなたたちには分かりませんかね。昔はそういったことをよく知っている人間がいたものです。今では、そんなことも伝わらなくなって、自分の感情で判断することがまかり通っているのですかね。人間にも一山当てて、後は楽に暮らそうという人がいるでしょう。私は、この一匹の虫を食べれば、後は何も食べなくても生きていけるのだ。邪魔をしないでください。私はこのときが来るのを、十年も待っていたのです」
王子は、尋ねた。
「十年も待った? 十年間、きみは、何も食べなかったというのだね。動くこともできずに、ここに留まっていたというのだね。それまでは、ただ、細々とした養分でやっていたというわけか。そして、いま、はじめての虫を手に入れたというのだね。どんな気分だろうか」
食虫植物は、その言葉に気を良くして、自慢話を始めた。
「最高だ。ずっといろいろなことが私の身に起こってきた。だが、こんなことは未曾有だ。見れば分かるとおり、私は今まで嫌われ続けてきました。食虫植物は、みんなそうなのです。誰も彼も嫌われる。そして、同類通しで労わりあうこともしません。私には妻も子供もいません。ただ、ずっと、私の所にやってきた間抜けな一匹の虫を食べるだけのために、待ち続けてきたのです。実際、間抜けではありませんか。そう思いませんか。そして、その間抜けな虫を手に入れた私は、これで、妻や子供を手に入れる算段をつけることができるのです。虫どもに聴いて御覧なさい、嫌らしい匂い、豪華な花、だがそれは惨めな、相手にされないもてなしに過ぎんのです。堕落していると言われます。その私が、ついに、今日一匹の虫を手に入れた。ざまあみろ。私を嫌い抜いてきた奴らのうちの一匹をまんまと引っ掛けたというわけだ」
王子は、尋ねた。
「寂しくはないの」
「そりゃあ、今までは、そうです。だが、今から、妻を見つけて、子供を作る。私は、それだけのことをやり遂げたのだ。無論、ただ待っていただけだ、という奴もいるだろう。だが、問題になるものか。確かに、小さな虫さ。でも、私は、それこそずっと欲しかったものなのだ、たまらなかったのだ。でも、こんなにうれしいときに、あなたがいて、良かった。虫たちにこんな話をしても、まったく、無駄です。誰かに表現できるというのは、植物でもうれしいことです」
「ところで、ぼくは、あっちの方から来たのだ。どうすれば、この高地を抜けられるかね。分かる?」
「ああ、」
王子は、その言葉どおり、道を進んだ。そこに、一匹の蜘蛛が近付いてきた。
「蜘蛛よ、こんにちは」
蜘蛛は、怒気をたたえた声で、王子の挨拶に答えた。
「こっちに食虫植物はいなかったかね」
「いたよ。向こうにいた。虫を捕まえたのだ」
「何? 虫を捕まえた? そんな草のことは訊いておらん。まだ、捕まえていない奴のことを言え。おれは、その袋の中に入ってきた虫を横取りするのだ」
王子は疑問に思って、次のように尋ねた。
「なぜ、おじさんは、食虫植物と違って、自由に動けるのに、わざわざ、人のものを奪おうとするのかね。第一、食虫植物の中に入って待ち伏せするよりも、そちらのほうが、効率もいいし、害もないと思うのだが」
「そんな理由は知らん。ひとつには、むろん、楽をしたいに決まっている。食虫植物は孤独だ。嫌われ者だ。だが、おれ達に楽をさせてくれるのは、奴しかおらん。あるいは、単に一つの遊びなのかもしれん。おれの力では、ここら辺の虫なら、簡単に捕まえられる。だが、たまには、食虫植物のところに奇跡的に入ってくる虫を奪おうとすることも又、いいだろうが。そして、そのおこぼれを、少しだけ、食虫植物にも分けてやり、かえって感謝までされるわけだ。それで、二重に楽しめる」
そして、蜘蛛は、笑いながら去っていった。その蜘蛛が一つの小さな花をつぶしていったので、王子はその芥子粒のように見えにくい小さな花を直した。するとその花が、つぼみのままで話し始めた。
「ありがとう。私は、アナという花よ。一年に二回しか咲けない。でも、あなたのためには、咲いてあげてもいいわね」
王子は、その話を聞いて止めようとしたのだが、その花は咲いてしまった。咲いてしまうと、感想を求めるように身をくねらせているので、眼を凝らして観察した王子は、美しいというよりもかわいい花だと思ったので、そう言った。
「だが、何で、咲いたりしたのだ。もう、後一回しか咲くことができなくなってしまったではないか」
「いいえ、花は、人間みたいには出し惜しみをしないもの。無理やりしなくても、自然に咲くわけ」
「食虫植物といい、花といい、植物はとても待つことがうまいものだな」
「弱いものは待つことしかできないというのが、あるでしょう? それで、上手になっていくのだわ。でも、私の前で、二度と食虫植物の話なぞしてくれないでね。誇りが違うのよ」
王子は、尋ねる。
「誇り。植物の誇りとはなんだろうか」
「何か一時、大事なときに待ちに待って、その大事な瞬間に惜しみなく与えてしまって、もしも失敗しても何も思わずに、次の時のために長い時間を又待つこと」
「でもそれは、食虫花も同じではないかな」
「違うわ! 待つものが違うもの。私たちのは愛すべきものであり、食虫花は傷つけるものなんだな」
「でも、それは、彼の役割じゃない?」
「いっそ、あいつら、死んじまえ」
その花は、そう言って、王子に微笑を送った。それからも、王子が歩いていると、さまざまな虚弱なものに出くわすのだった。この高地の生き物は、何から何まで儚く弱弱しいのであった。一匹の虫が、土を食べていた。王子は尋ねた。
「なぜ、土を食うのだ」
「ここには、非常に、物質が少ないのだ。命の総量も、個体それぞれへの割り当ても、ここではあまりに少ないのだ。あなたが、ここに永住する決心をしてくれれば、良いのだが。この広い土地のすべてをかき集めて、やっとで、あなたを半分作れるか、というところだ。皆細々と生きている」
王子は、ひとつ思って、こう言った。
「とするとだよ、どこか遠くの地から、偶然、虫がこの地に飛んでやってくるとしよう。それは、この地を十分に堪能してから飛び去っていき、この地の飢餓感をより深めるかもしれない。とすると、きっと、食虫花は外から来る虫を土地に取り込んでいるすばらしい存在に思えてこないかね。どんな他の植物も、奪われていくだけに過ぎないのだからね」
すると、その虫は、王子を変な目で見て、「あんなは、変な考え方をするんだな」と言った。王子は、導かれた方角へとさらに歩き、そして再び、別の食虫花にあいまみえた。食虫花が気に入ってきていたので、話しかけようとすると、その花は枯れかける寸前であり、みるみるうちにしぼんでいき、そこにぽっかりと空洞が開くと、隣からせまってきたスミレが、「やっとで死んだ」とため息し、その空洞を埋めたのだった。
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