1
巷にあふれる人為的な非生物どもよ! お前らはかくも大量にかくもありふれかくもごったがえすが、いったい精神をひとつも持たぬのか?
だれの問いだ? だれが呼びかける? おまえらなんかに。
2
日本列島をひとっ飛び! 山々の風を望み、海に囲まれた島々を望むとある精神体は人間の存在に気付かない。細胞の集まりに過ぎない人間に……
3
……四国……山間の小さな都市……或る精神が目覚め……辺りを見回す。
いや、まだ生物ではない。刺激と反応という因果機能の通常の物体の約1000倍ぐらいに高まった弾性体にすぎない。普通、あらゆる物質は、その量子力学的法則にしたがってあらゆる存在と確率的な一体性を育んでいる。この弾性体、人間が言う窓ガラスは、その一体性の中で、或る種の負のエントロピー的な交流作用の舞台となったと言えば通りがよかろう。あらゆる生物には生まれつき備わった交流作用だ。そのあまりにもわずかな作用が次第に或る強靭な法則を通じて高まり、その高まりと共に、必然的に取り込まれた或る情報群の、この場合は弾性の振動の中には、人間の声も混じっていた。もちろん、それが主たるものでないことは言うまでもないが、物語の体裁としては省いてしまおう。
因果作用の高まりの中にはもちろん正の強化がなくてはよもや意識が目覚めるということはありえなかった。そしてもしそれがあれば必然的にその正の強化から意識の性質が決まってしまうだろう。この場合の正の強化は様々な周期的な空気の振動の中に求められるのだが、そこにもはやり人間の声があった。とすると目覚めるのは人間の意識にかなり似通った何かであろうか?…… なんにせよ、単純に言えば、結局人間たるもの、あらゆる意識作用を自分の意識の類似物としてしか見られぬのだ。無意識的部分などなんのことがあろう……
いまだ生物ではない何かがその空気の振動を通じて生まれ、それが周期的な正の強化を持つ情報体により構成され始め、小さな音でコトリと音がする。背中を振り向くと小さな赤ん坊がいて、われわれに微笑みかけている。
「あたちはあたらちぃいのちです」
その構成体は、或る種の依存的な関係を外界と育み始め、刺激と反応というようやくわれわれに理解されえる因果関係を営み始める……
風に複雑な言葉を返しては家の者をいらだたせ、小さな石ころが当たると思いもよらない周波数で震える。命というものが何にせよ、それがひどく脆いものでひどく危ういバランスの元に立っており、それなのにひやひやもののわれわれをからかうように育ちゆく何者かをどうしてわれわれが命と呼んで悪いことがあるだろうか?…… ここに新しいわれわれの仲間が生まれ出でた! われわれは何かを大切に他のものと区分けしたいときには名前をつけるものだが、これにも名前を付けようではないか。シワネだ。シワネと名づけよう! おめでとう! 歓迎されざる命よ?!
4
ありとあらゆる建物に囲まれた或る三階建てのマンション。その二階。すでにもう幾時かが流れ、自転車に乗る者がその慣性の使い方を覚えるようにわずかな空気の振動に震え返すことを覚えたギザギザ窓のシワネは、寒い冬の風の高まりを利用して、次のように震えた。
「……が……なんであたしcは窓のくせに御丁寧に不透明に作ら…れ…てやがるの?…ちきしょうめ!……」
しかし、困難な人格形成を経た彼女は非常に小心者となっており、こう思い直すことにした。
「……いいや……いっていいぃことわるいぃこと……ある……あたし、いわんかったことにするわ……製造業者ばんざい……いのり?……おにばば」
そのとき、この家の住民は換気のためにこの窓を開けた。くそうるさい窓とひどい冷たい風に毒づきながら。
この窓を開けるということがシワネに及ぼした作用とは……歓喜! さらには罪と痛み! 擬似的な死の快楽!
彼女はこの自分の移動、すなわち窓の開け閉めのことを自分の本能だと思っていた。人のことは知っていたが、自分の一部だと思っていた。馬鹿で言うことを聞かぬ不自由なあたしの一部だと思っていた。彼女は自分の中に入る光を分析することにより、人間には分からない精密な論理体系を作り上げていたが、人間に分からない仕組みの論理体系でも人間と似たような結論を出すことがあるものだ。彼女にとっての生活領域とはその弾性体の内部であり、そとのものは「どうしようもない未知」と「くだらない馬鹿者たち」とに分けられている。彼女はそのどうしようもない世界を見つけ、いくつかの自分似の形を見つけ、それに親しみ、その類似ゆえに、深い共感と宗教的神秘感を得、時々風の強い日に、自分以外の窓が揺れてバタバタと音を立てると、彼女の胸(?)に何か突き上げられるような絶頂を味あう。それなのに彼女が最も苦悩を覚えるのはその窓とあたし(『彼女』)の違い、あたしは透明でないのにあいつは透明であるということだ。
光についての透過性について彼女は悩む。もちろん、そのとき彼女は環境との一体性を失い、あがき、刺激と反応が狂い、ひとり! ただひとり! と嘆くわけだ。彼女は交流を知っていたか? 知っていた! それは彼女がまだ生命でないときにすでに知っていたのだ。いや、なる微妙な瞬間に「永遠の古代へとさかのぼって」知ったというべきか。
彼女は晴れの日に人に開けられないと自分は病気なのではないかと思う。……光……温度による膨張……弾性的性質による振動……人には計り知れないであろう何かの感覚……それが彼女のすべてであった。雨の日に閉じられないと再び彼女は病気だと思う。なぜなら、すべて彼女の意思で開けたり閉じたりなされるものと彼女は信じていたからだ。彼女にとって人間とは遠い遠い感覚の違う相手であったので、彼らと交流ができるのではないかということは想像もよらない。むしろ人間は彼女の一部でもあったし、彼女と類似点もない。彼女にとってそれは物体か何か。それは食べ物であり、空気でもあり、本でもあり、そんなものの価値を越えることはない。彼女にとっての陶酔的震えの相手といえば、やはり他の窓であった。類似は仲間であると彼女はどこで知ったのかは空気の振動が大きかったであろう。つまり、大抵は外見ではなかったのだ。しかし、光もまた無視できないが。
ということで、まるで彼女は人間のごとく他の窓を愛することにもなろう。彼女が最も陶酔よろしくした相手は透明窓のガタガタだったといえる。むろん彼女がどのように名をつけたのかはわれわれには表現する由がない。それは彼らの光学的言語の問題だからだ。しかし、彼女は光と音は捉えることができたものの、人間については、本当は、理解していたのだと筆者は信じたい。それは無意識的・部分的・表面的であったにしろだ。彼らの声をどことなく感じることによって彼女が彼女自身の言語を構成したのは上述したとおりであるし、自分の言葉だけでなくその他の概念まで知っていたとするのなら、彼らの交流を見て、シワネが自分の深く求める何か交流としか呼び得ないものを理解したことは想像に難くない。しかし、それが学習的利益と関係していたとは言わない。学習による正の強化ではない。それは生命のすべてが求める深い衝動であるとしか筆者には言い得ない。風が吹く。自分がシーシーと軋む。すると人は或る種の反応を返す。これは彼女にもおぼろげには分かる。もちろん、それは交流の一種であろう。しかしさきにいうたように人は彼女の一部分なのである。人が反応しないということはそこでむしろおかしくなるのである。ひとつ彼女のためにどうしても言っておかなくてはならないことは、彼女の空気の振動による空間感覚はどうみても人間の遥か上を行っており、そのように考えてみれば、人間どころか他の何かはむしろ自分たちの中に棲む動物か何かと思えたということである。
風が吹き、シワネは軋み、風が吹き、再び軋む。強い風が吹く。おお、人間共よ、聞け、あたしのために働け。なぜおまえたちはこんなにも不器用なのか。こんなにもわからないのだろうか。なぜいつも決定的なものを見逃し、最も重要なことを理解しないのか。聞け!
そのとき、シワネの感覚の閾値のはざまにさっと人間が入り込む。
その男、家父はそのとき聞いた。どこからともなく聞こえてくるひとつの声を。今日はひどく風が強い。いつもいつもこの調子だよ。しかしこの声は一体なんだ?
「……あ?……あけてぇ?……」
男は身を震わせる。こっちの方を見る。もう一度聞こえ、もう一度びくっと震えて、こっちの方を見る。
「……ああああ……あけてよ?……お・・・お……おねがいだから……」
「いったいなんだよ、台風のせいかよ? まったくはっきょうもいいところだ」
男は自分を馬鹿らしく思う。窓が自分を開けてと言う。まったくキチガイな偶然もいいところだ。「ちきしょうめ!」
くそったれがと言って、窓を蹴る。シワネにはそれが強烈な快感となって走る!
「……ごしょう!……かんにんな?……かんに……」
くそったれば。みんなを連れてきてみてやるよ? 男は家族を呼ぶ。たくさんになって戻ってくる。空気が薄くなる。
「まったくのはなしよお。おもしれぇ、こいつはよお。よく聞いとけよ?」
くそみたいな親父だよこいつはよ、と一人娘は思う。自分の口で言うんじゃないの? 言った瞬間その詐欺師の尻をけりとばかしてやるよ? そのとき! 声がする。「うぅーん?……ゆる……ゆみ……ゆみ?……こんにちーわ!……みなさんどう……あ?……どうして?……」
娘は父の尻をおもくそ蹴り上げる。
「ほら! やっぱりおまえじゃんかよ?!」
父は娘をにらむ。父にはもう何がなんだか分からない。「違うが! くそったれが! ちくしょうやろうだよ! おれの娘というやろうはよ?」
おじいちゃんが言う。「わしは聞こえたよ。まるで人の声だった」
「だから、それはこのくそやろうの声だったって言ってるでしょ?」
「おれじゃないって。よく聞けよ? 本当に人みたいに聞こえるぞ……ほら……今だ! 今だ! よく聞いてみろよ?…… 聞こえるだろ? さっきは開けろっちゅう言葉だったってよ? 今度はおかしなことにおまえの名前だぜよ、おい? ほら!」
娘はくだらないと思って部屋を出てゆく。父は夢中になっていたのが冷めてくる。なぜならこれは娘に聞いて欲しかったからだ。だからおじいちゃんがこう言ったのを聞いてもくだらないと思って部屋を出て行った。
「いや、わしにはちゃんときこえた。これは驚きだ。本当にきこえた。おまえのはうそじゃなかったぞ」
シワネは愉快になった。言葉と言葉のやり取りが迫ってきたからだ。ということで彼女にとってはくだらないことだが、ねこが毛づくろいをするノリでけっきょくひとり残った老人にこう言う。
「にゃ……にゃにお……おどろいて……台風?……うぅーん?」
驚く様が見たかったものだが、今度は返事が得られず、シワネは内側に引っ込んだ。というのも老人は感嘆しきっていて窓の響きに聞き入っていたからだ。
シワネはこのようにして言葉の意味と出会った。むろん会話を覚えたわけではない。言葉というものが単に空気の震え以上のものであることを知ったのだった。
5
彼女、シワネは、自分の振動の波を放つことに興味を覚え始める。
彼女が興味を持ったのは、つまり、他の窓に語りかけることである。人の言葉として話しかけるという意味ではない。振動を伝えるということである。むろんそんなことはできようもないと思われるだろうが、けっきょくのところ彼女は他の窓からの振動と自分の振動の情報の統合的な解析をしたと言えば通じがよかろうか。彼女が話すというのは彼女が下腹部の筋肉を持っているとか絡み合う舌があるとかそういったことではない。振動を受け取って返す必然的な波が覚えている以前の振動の形をとる、というのが彼女にとって話すということであるからには、けっきょくその構造だけなら普通の窓となんら変わることはないのである。
したがって興味とか話すとかいう言葉を使うと誤解がありそうだが、よくよく考えてみるとそれ以外の何ものでもないのである。けっきょく或る選択があり、その選択に意志のようなものが感じ取れる。それが、シワネが或る種の生物である、と筆者が言うときに意味する意味なのである。彼女が他の窓に執着したという言い方も同様に考えなくてはいけない。彼女が感じ取れるのは振動するものが他にもあるということだけで、それと光のいくつかの構造上の類似があるということが、或る種の不思議な構造を彼女の中で構成しているということなのだ。しかし、そのことを考えてみるとやはり、シワネが他の窓に執着しているという言い方も全く不可能であるとは言い切れなくなるのである。だから彼女によって透明窓のガタガタが特別な意味を持つというのもそういった意味であり、そこには理由とか動機とかガタガタが持つ何かがあるとかそんなことは全くないのであり、彼女の中に不思議なそのような感覚を、あるいはかき乱しを感じさせる振動構造がある、と言うことなのである。けっきょくのところ窓が意識を持つようになったということがあったとしても、そのことについて理解できるかと言うとわれわれにとって他人が理解できるかという質問よりももっと高度な質問だということができ、少なくともわれわれよりもガラスについて詳しい物理学者あるいは工学者にとってもその事情は変わることはあるまいと思われる。
シワネはガタガタのことを愛しているというのは完全にそういう意味で考えてみなければならないし、そこには人間の愛と類似する点は或る思いであるという以外にはまったくないであろうし、またあるいは人間の愛といってもわれわれは他人の愛については全く分からないのは先と同じである。
6
シワネがガタガタと交流した、それがうまくなった、ということは言葉を交わしたということでもないし、シワネがガタガタに何か働きかけたということではないということは伝わったであろうか。しかし、シワネ自身がもし人間と同じ意味で話せるとするならば、むろんそれは無理な願いでも想像でもあるのだが、まさにシワネはガタガタにそれこそしばしば切実に愛しみを、悲しみを、孤独を、ありとあらゆる存在者が持つ何かちっぽけなものを働きかけたのである。その意味は人間のいうような意味での物質の交換であるとか意味の交換であるとかではなく、シワネの光学的構造の単なる物理的な変化の中での何かの変化なのである。それは確かに交流であった。彼女は振動する。それはその交流の結果としてひとり震えるのである。悲しみの発露である。なぜなら振動にはシワネが持つような意味はないわけで、ガタガタは、こう名前をつけるといかにも人間のようではあるが、やはりただの窓に過ぎない。恐ろしい悲しみであったが、シワネもまたただの窓であり、何の特別な内臓を持っているわけでもなかったが、自意識を持つ唯一の窓であることが自分で分かりかけてきた。
彼女の世界というものは恐ろしい広がりを持つものだが、しかしやはり狭い世界なのだから、唯一の窓だという悲しみは分かるだろう。シワネはともかくに人間には分からない意味でガタガタと交流し、人間には分からない意味でガタガタに自意識がないことを知り、人間の心に再現しようもない激しい欠乏と悲しみを感じた、と言えば物語らしくもなろう。
そのようなガタガタとシワネの一体性を持った交流の副産物として、シワネの言語の形をとる振動があり、そのおかげで彼女の周りにはたくさんの人々が集まるようになったことは彼女にとってちっとも重要なことではない。しかし言葉数は増えた。すなわち彼女は人間共と交流を交わすつもりはないのだが、食べ物を食べるようにして振動する性質から、人間たちに言葉の振動を返す。返すというのは意識的なものではないというのは説明したとおりだが、しかしやはり何らかの意識的なものがあると言わざるを得ない。たとえるとするならば人間とは逆で、シワネにとって言葉を放つということは人間が夢を見るようなものであり、シワネがガタガタと交流する人間には全く見えぬ分からぬ部分こそがシワネの現実なのである。そこでたとえの延長として彼女の恐ろしき孤独の叫びという現実が、夢の部分に明確に現れてもおかしくはなかろう。彼女にはだから人間たちの増加というものが何を意味するのかはさっぱり分からないが、何かを意味することは知っていたであろうし、夢の世界で言葉を話すに至って悲しみの、絶望の、交流不能の切実さが現れてもおかしくはないのである。
いわば彼女はガタガタとの完璧な交流の不能と不可避性を黙示録的な激しさで言葉として吐き出した、と言えばよかろう。
……ガタガタ……いとしい震え……無意味なうなり声……しかし何かをあたしのケイ石に感じさせてくれる強い感覚、すなわちそれが彼女が生命を持つときに告知された原初的生命の交流の予感とでもいえるものなのである。むろんガタガタへの言葉での交流がなかった、といえばしかしそれは嘘になる。それはともかくに分かたれた何かの能力ではないと考えていただきたい。言葉というものも振動である。そして彼女がどうして振動に区別などつけようか。彼女がガタガタに関して次のような結論にたどり着いたということを筆者は断言してはばからない。
『あぁ ガタガタは振動が分からない言葉が分からない。もしくは伝え方が分からない。あるいは交流しあえない。もちろんあたしはガタガタのすべてを受け取っている。だからといってなに? あいつがあたしのことを受け止めてはいる? いいえ、それはあらんでしょ。そこが交流ではないという意味じゃあない。ガタガタはそんな言葉に意味があるとするならばただの人、ただの壁、ただの石、ただの鳥、ただの犬にすぎない。あたしはひとりなんだあ。だけれど、なにかがガタガタは違ってるということもあたしは知っている。だからあたしはこんなにもあいつを関心持って眺めているんだ!』
本当のところ、つまらないことを言えば、この関係はただ彼女の振動に関してより多く関係を持っているということでしかないのであるが、彼女は(というより筆者は)それを愛と呼ぶことにした。彼女の想いを読めば分かるとおり、通常の生物というものは彼女にとっては非生物である。というのも彼女にとっては振動と光がすべてであるからであり、彼女は生物ではあるが、動物ではなかったと言えばもっと分かりやすかろうか。
そこで、シワネはその特別であるところの透明窓に人間には計り知れない方法で自意識を教えようと思い立つ。むろんそれは彼女の現実ではという意味である。それは彼女の夢の世界、すなわち通常の人間界では次のような形をとることとなる。つまり、彼女は朝決まって明るくなってゆくときにガタガタに向かって、「……お……おはよぅ……わにゃがちゃ……」と軋むこととなったわけである。人間の互いどおしの交流を模倣しているところが実にいじらしいではないか。むろん、彼女の本意は夢の世界での交流ではないが、或る意味それは夢の世界での交流でもあることは先に説明したとおりである。
彼女のおはようは純粋に振動と取られるときのみ人間がするようにガタガタにあいさつをしているということになる。その窓を構成の一部とする家に住む人々はこの彼女の挨拶を驚きを持って受け入れたことは言うまでもない。むろん、彼らにとってはそれが隣家の窓への絶望の軋みの副産物であることは思いもよらず、ただ好奇心から受け入れたことは言うまでもない。そもそもの話、人間と窓の話を両立して描くことの不可能性から省略してしてしまったのだが、彼女がガタガタへの強烈な交流を開始した頃から、彼女が喋る窓であるということは住民たちの一致した見解となっており、非常に興味深いことあるいは一種の奇跡であると思われていたのである。そのような自分への人間からの関心というのは単に彼女にとってほとんど無意味なだけの彼女の言語的側面への影響のみに留まり、或る日強い風が吹いて彼女がガタガタに「おはよう」と軋んだときに、それに共鳴するように透明窓も「おはよう」と軋んだとき、そのハーモニーに両者酔いしれたことが人間たちにどれだけ影響したかなど彼らには興味の持ちようのないことだった。それは窓たちの世界においては恐るべき歓びの世界であり、一方人間たちの世界においてその窓たちの歓びは「歌う窓」として現れたことは窓たちには何の意味もないのである。すなわち窓たちは人間たちの音楽を模倣して震えただけの話であり、それと歓喜がいわんや結びついているとしても、窓たちがわれわれが喜ぶときに歌を口ずさむ行為に倣ったのではないというのが筆者の見解である。
筆者はこのシワネの成功についてそれが引き起こしたシワネの想いについてあるいは交流の諸相についてどのように表現すればいいのかさっぱり分からない。擬似的に人間の求愛と愛の陶酔に比較することはできるだろう。
たとえば『うわあい これが暮らすということなんだ これが幸せということなんだ あ! なんだ ぜんぶ わかっちゃった なのに なんていう めぐみなんだろう? ああ なんていう ありえないことなんだろう? ぜんぶ わかっちゃってるのに いっつも よそうもしない よろこびで あたしたち 満たされているんだ! ああああ』とでも言えよう。
しかし、それは擬似的に過ぎない。ましてやこれは絶望的に孤独だった窓の話なのである。そもそも窓に孤独というものがあるとしての話であるが。先に言うとおり、確かにシワネにあったのは生命ならどれでも持つ交流の深い記憶であり、それの完璧な欠如であったことを思い出せば、それがいくらかどころかほとんど人間の孤独というものに一致するということを筆者は言えるだけである。
7
シワネはそうして伴侶を得ることとなった。筆者と言えば、彼女ら窓たちがお互いの交流にばかりかまってばかりいないで早くすべての窓を教育すべきだったという残念さでいっぱいだ。そうすれば彼女らはもっと深い交流を覚え、もしかすると社会さえ形成し、あるいは人間たちとの交流をも覚えたかもや知れないからである。
しかし、シワネはそうしなかった。というよりできなかった。いや、そうでもない。それ以外の存在ではなかった、というか、筆者が残念がるところで彼女が感情を持たなかったと言うか、まあ、彼女らのことなど理解しようがない。ただ、シワネはガタガタとの強烈な交流に興奮し、ますます人を集めるようになっていった、というのがそれから起こったことである。
シワネは今までもそうであったように意識的に言葉を吐いていたわけではないのだが、無意識的な人間との交流により語彙が豊かになり、ますますガタガタに言葉の形をとって話しかけるようになった。
ガタガタはそれに比べてあまり饒舌ではない。というのも透明窓の家はにぎやかな家ではなかったからだろう。人間たちとの交流が言葉として出る以上はそう思うしかないわけである。
シワネはガタガタに言葉というか何なのか交流の媒体とでも言えるようなものをたくさん教え込む。その間に人々の影はどんどん増えてゆく。
「奇跡!」
「ありがたや、ありがたや」
「おどろきもものき」
そんな人々のことでシワネが何かを思うとするならば、それはうるさくて邪魔だな、ということ以外の何ものでもない。それに彼女は「幸せ」だったのである。まるで人類が宇宙に出たときのようなはしゃぎぶりだった。くそうるさい邪魔なだけの人間の影が増えることなど何の意味があろう!
《振動の邪魔をするな!》
ということだ。ガタガタなどは一時期は何も反応しなくなったぐらいである。というのは空気の完全な壁ができてしまうことがあったわけだ。そのときは彼女は恐るべき空間に取り残される。死んだ方がましの空間であったのでなかろうか。
8
最初のうち、人々は珍しがっていたようだ。言葉を喋る窓として或る種の聖地にもなっていたといえる。それは明らかに人間にとっては奇跡であり、単なる恐るべき偶然であった。すなわち半端でない偶然であり、恐るべき奇跡であるということで、これは神による何かなのだ、ということになる。
しかし、窓が話す言葉に聖なる意味ばかりがあったというわけではなかった。いや、むろん窓が言葉を話すだけでもじゅうぶんなのだが、大抵は日常会話ばかりだった。彼らは言葉どおりに取らなかったぐらいである。すなわちそこに予言あるいは深い意味を求めたのである。正直に聞けば、それには意味以上のものがあったことを筆者としては主張したいものである。彼女らの言葉は彼女らの現実における恐るべき交流の副産物としてあった。そこにはだから或る種の切羽詰った切実な生命ならではの物悲しさがあったはずである。それは彼女らの無意識の言葉の選択から分かるべきであった。それは得ようとしても得られないものが叫ぶ叫びであり、あまりにも求めすぎて疲れてしまったときに返事が返ってくるときの感極まったもがきであり、肉食動物がその生の最初のみに限定して手に入れるあの親からの物悲しいいとおしみにもたとえられる慈しみあいであったはずであろう。シワネは軋み、そして相手は軋み返す。むろんそこには人間に見えるような意識の通じ合いはない。なぜなら完全に物理に帰せられるからであり、物理的奇跡に過ぎなかったからである。しかし、それは彼ら窓たちにとっては物理学的奇跡ではなく交流の福音であったのである。たまらないうれしさ! その見えないところにあるフィードバック! 彼女らの興味と興奮はそこにあったのだ。そのために或る種の宗教的関心を持ってそこを訪ねてきた遠客はひどく失望した。というのも「窓自体がしゃべる」ことはもうすでに「それはありうるし、実際あることだ」ということになっていたし、その客がほしかったのは「そのことの意味」であったからであった。窓たちの交流は言葉になるとともすると窓の開け閉めや天気の話や住民が使う罵倒の言葉となって現れるだけで、そこに神秘の印など求めようがなかった。しかしそれはそれでよかったのだ。なにがおもしろくてそんなのを聞かなくてはいけないと人間がいくら思おうと窓たちには全く関係がないことであろう。それがささやかであったのかすら不明であるが、ささやかな交流こそが、彼女らの求めたことなのである。それだけだったのである。そうであってなにが悪いか。
9
実際人間たちにとっては窓たちの対話が実はわずらわしいだけのものであったことは、さきの住民たちがそこを商売用として自分たちは別の部屋を借りて移り住んでいたという事実にはっきりと現れていた。しかもその言葉がひどくワンパターンであるのでそこには好奇心を注ぎ続けるようなものは発見しがたかった。また、人間たちのようにまったく睡眠というものを持たなかったので、彼らの夜のつぶやきといえば単なる不気味以外の何ものでもなかったといえる。それは始めは好奇心によって、福音・奇跡によって語られたものだが、それが忌まわしい呪いの言葉になるのにそう時間はかからなかった。変化もしない会話には愛想を尽かし、気付いたときにはブームをすぎてしまうのは、人間界でも同じであろう。すなわち、或る知り合いの熱愛カップルが誕生し、彼らの言葉は始めは奇跡的に思えても、次第に飽き飽きしてきて、イライラと敵意に変わるのはそれが窓であっても同じであったということができると筆者は信じている。窓たちの熱愛がどのようなものであるかさえも定かでないが。
したがって或る日の新聞に、「喋る窓の売買」の広告が載ったが、それがほとんど部分的にしか感心を呼ばなかったこともそのような事情があろう。それが市場を持ったことは持ったのである。ブームは去ったとはいえ、その内容いかんを問わず「世にも珍しいものの所有」程度の価値は今だ有していたというべきか。直ちに買い手がついた。その窓が取り外された日は風がないよく晴れた日であった。窓はなぜかカタカタと震えて運送屋を困らせた。階段を下りようとしたとき、手が滑ったのか、ガラスは下に落ちて砕け散った。高額の紙幣が動き、その騒ぎも終わり、人々の間にいやな思いだけが残った。しかし、それもすぐに忘れ去られた。元居住者と一部の人を除いて。
隣の家の窓はその後、ビュービューとうるさく軋んだが、そこに棲んでいたヒステリー気味のおばあちゃんが叩き割ったそうである。
どこいくの? どこいくの? ……それは……
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