少女のような女たちに囲まれている。ひどい誘惑だ。ほとんど少女のような女たちが後宮にはたくさんいるのだ。クレオパトラの王宮も、わが楊貴妃の後宮ほど、ひどいことはなかっただろう。三人ほどわたしには気にかかる女がいて、わたしの定義によれば、抑鬱弱体化による誘惑、いわば「傷ついたわたしをなぐさめて」をわたしに引き起こす。その誘惑は、わたしが宦官であることを突き抜けて、わたしを堕落させる。この力は、アフガニスタンでは様々なカリフをしてハーレムを構成させたものと同じであろう。いわば所有に近いフェティッシュであり、家に置いておきたい魅力である。一眼で男の眼に自分の姿が焼きつくように、何世代もの歴史を通じて彼女らの顔や身体は形を変えてきて、洗練されており、様々な凹凸で飾られて、智慧や戦闘心や勇気を完全に役に立たなくさせる動きを身体の各部分が行い、その顔の各部分の動きをたとえ忘れようとおもっても、その形や動きは、積極的に男の記憶の中に鈎爪で自分の場所を確保し、そしてまた、自分がその男の前にいないときにすらその爪はときどき血を流す。およそ百人に一人ぐらいの割合でその種類の女が目立たないようにすべての男の記憶や欲望をかき乱しながら、エネルギーを放散させて歩くのを見つける作業から始まる。専門の役人が彼女を引き取ることを家族に申し出る。あるいは、町を出て、いろいろなところをさ迷い歩いてハーレムに集まってくる少女たち。彼女らはおとなしくて話すこともできない顔をしている。もう殴られたような顔をしている。しかし彼女たちが歩いた足跡の分だけ家庭は壊され、若い理性は堕落しているのだ。その他の女たちは、彼女たちが存在してしまったからには、一体どうすればいいのであろう? ところが逆に、男をかき乱しはしない多数の女のほうが世間で生きてゆくのである。その特殊な女たちはそうしてハーレムに集まってくる。つまり世間で生きてゆくことがとてもできないので自分が持つ唯一の財産を無意識のよりどころとしていつのまにかここにたどり着く。生存を犠牲にして美しくなった特殊体の美女たちは実際、自分の居場所がこの世界には全然ないことを知るであろう。なぜならいかなる天才の場合でも能力者の場合でも、そして美女の場合でも、すべての少数派に対しては世界は前もって用意された居場所を用意しないからである。こうして人々の前から少数者たちは急速に消えてゆくのだ。町で一番の美女の消息ほど思い出せないものはない。そうした小数の美女たちの一部が集まってくるのがわたしが暮らしているハーレムであるが、そうであるから、彼女たちは生存をあきらめている。生存をあきらめているがゆえに、毎日が命がけであり、上位の女官との女同士の恋は、常に二人以上の殺害の結果に終わる。そうした少女たちがわたしを絶え間なく誘惑している。
わたしに対する女性の誘惑はそれだけではない。たとえば肌の露出や足の形、多種多様な胸の質感や形状などもまたわたしを苦しめるのだ。問題はそこにいかなる飾り気もないことであり、そのために若い少女たちのちょうど狂おしい匂いがぷんぷんしている。問題はさらにそういった少女たちがたくさんおり、そのような単純な量の拡大がなかなか以外と厄介であり、わたしはそれらの欲望を遮断するのにひどく苦労するのだ。
実はそうしたことは町でも起こるのだ。近頃なぜかそうした欲望を感じるのは、模倣欲が強く働いているからだろう。つまり若々しい、恋に充ちた少女たちの、むせりかえるような性欲と恋の中で生活し続けているわたしにはもはや様々な男や女から発せられる性欲の流れを視覚化して肌で感じ取ることができるほどである。つまり年をとればそれなりに偽装したり抑えたりすることができるようになる性欲の受動態や能動態がここでは抑えられることを知らずに現れては消えてゆく。ところが我々はその欲望を一歩進めることすら許されておらず、途方に暮れたまま、互いの顔を眺めてはため息をつくのだ。こうしてわたしたちの一部は政治に慰みを覚え、その更に一部は文学に慰みを見出す。しかし、その政治は、ハーレムの女たちの性的権力闘争の単なる模倣の影にすぎず、そしてまた文学は彼女たちが愛する年下・年上の女性に書く愛の手紙の情念の薄まった形態に過ぎないのだ。
0 件のコメント:
コメントを投稿